イエス・キリストの救いを信じたクリスチャンは、自分が魔物の心を抱えた罪人で、
裁きの対象とされる惨めな人間であることが分かったため、キリストに救いを求めま
した。それなのに、信じたら失敗を犯さない利口な人間を演じて生きて行こうとします。
それは、救われたら正しい人間の生き方を始め出さなければいけないと思うからです。
このメッセージは決して放縦な生き方を奨励する訳ではありません。しかし、まず第一
に重要なことは、「人間は生まれながらに罪人そのものである」ということを、どうし
ても理解しなければなりません。なぜなら、人間はアダムとイブが絶対主に背いた反逆者
の子孫として生まれて来たからです。ということは、いくら自分の罪に抵抗しても勝てな
いということです。人は母の胎の中から罪人の血筋を引いて生まれてくるのです。
この事実は決して変わることがありません。ということは、クリスチャンはへり下って
罪人である現実を認めなければならないのです。その上で、キリストの救いに預かった
クリスチャンとして、自分の考え方を転換し、この罪人の自分に望みを置くのではなく、
絶対主に望みを置いて生きて行くよう、方針転換しなければなりません。
絶対主は、罪人の私たちに「正しい行い」という生け贄を求めておられません。むし
ろ、「私がささげても、まことにあなたは生け贄を喜ばれません。絶対主への生け贄は
『砕かれた魂、砕かれた悔いし心。』絶対主よ。あなたは、それをさげすまれません。」
(詩51:16〜17)とあります。この「砕かれた魂」とは、自分の中からは決して
「正しい行い、正しい心は出て来ない」ということを身に沁みて知り、悟った人の事を
言います。なぜなら、「自分の心の中から出てくるものは、不品行、盗み、殺人、姦淫、
貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴」だからです(マルコ7:21〜
22)。このことを本当に悟り、「私の罪はいつも私の目の前にあります」(詩51:
3)と自覚するなら、自分の失敗を指摘されても言い返すことをせず、あえてへり下って
心底過ちを認め、「その通りです」と悔いて行くことです。その時、絶対主は「その悔い
る心をさげすまない」と語っておられるように、「悔いて行くなら、それで良し」と言わ
れ、それ以上は求められないのです。その時、私たちはそのように見て頂けるのなら、
放縦な自分の考えを少しでも入れ替えて、「絶対主のためになることをやらせてもらお
う」と心を変え、前向きに絶対主のために生きて行こうと思い始めるのです。その生き
方は、もはや罪人の自分を認めてもらおうとする動機からではなく、自分の損得から
離れて純粋な動機で絶対主のために生きて行こうという生き方になって行きます。
それは、「人に取り入ることでも、人の歓心を買おうとすること」でもありません。
ただ絶対主の役に立ちたいという気持ちから出てくるものです。これが、私たちの
目差す生き方、また行いなのです。この生き方は、「自分のことより、人が喜んでくれ
たらそれでいい」という生き方に変わって行くものです。この心こそ、絶対主が喜んで
受け入れて下さる心です。
そこで、この自分の損得を越えた生き方を始め出す一歩は、絶対主の為になる生き方を
しようとする動機から、「まず、絶対主の国と絶対主の義を求める」生き方を始めること
です。私たちの知性は、アダムとイブに悪知恵を授けられた蛇から出たものです。
ですから、自分の知性に頼って物事を解決しようと思うのは、サタンの罠です。なぜな
ら、自分の知性は自分に頼らせ自律させようとしますから。(それは、エバがそうさせら
れたからです。)しかし、絶対主の言葉は、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」
(詩37:5)とあります。これはサタンの考えとは真逆です。ということは、人が自分
の頭で思い巡らすと蛇の罠にはまり、知らない内に自分の考えで何とかしようとして、
自分が罪人であったことを忘れてしまうのです。ですから、クリスチャンは、常に絶対主
のことばである聖書を拠り所として、「聖書に書いてあるから、それでいい」という信仰
に立つのです。ここに立っていなければ、自分の考えと聖書の考えを都合よく損得で取り
入れることになります。だから、クリスチャンは聖書の御言に立つと決断しなければ、
絶対主を第一とした歩みは始まりません。蛇によって騙された知性を用いるのではなく、
絶対主の考えで、絶対主にあって生きて行くと方針を改めて行きましょう。そうでなけれ
ば、迷いの人生はエンドレスで命を閉じるまで続くのですから。
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