「我が心、定まれり」(詩57:7)
−正しい決断の仕方について− |
信仰の決断は、軽々しく自分の思惑や自分の願望では決められません。
それは、一度定めたものを翻すことが出来ないからです。聖書には「手を鋤にかけて
から、後ろを見る者は、絶対主の国にふさわしくない」(ルカ9:62)とあります。
ですから、クリスチャンの決断は、絶対主の前で定めたもので、自分の感覚や願望で見切り
発車して定めてはならないのです。
未信者時代は、絶対というものがありませんから、常に自分の計算や自分の思惑を根拠に
して判断し、最終的には自分の 気持ちに従って決めて行きました。しかし、しばしば思惑
通りには事が運ばず、手痛い目に会って後悔することが多かったのです。
ところが、クリスチャンの場合には絶対的な方と相談して、「絶対主のみこころ」と判断し
た場合には、確信をもって心を定めて実行して行きます。しかしながら、その場合でも、
しばしば壁に打ち当って困惑する場合もあります。しかし、絶対主の前に定めたこと
ですから、最後まで信頼して鋤を手にして耕し続けるのです。これがクリスチャン
の決め方です。
このように信仰の決断は自分に頼ってするものではなく、絶対的なるお方に頼って決めて
行くのです。そして、たとえ自分では決断できなくても「絶対主が、こうしなさい」と
「御言によって示唆」を受けたら、絶対主の言葉は絶対ですから、「そうして行きます」と
定めて行きます。しかし、その場合のクリスチャンの信仰は、「絶対主にあって自分は
生きる」ということが、信仰生活の前提となっていなければなりません。この前提なしで
「絶対主が、こうしなさいと言われたから、そのようにします」と決めたとしても、
絶対主に頼り切っていない人は、自分の都合が悪くなると、「やっぱり絶対主に頼っても
駄目だ」と自分の判断を優先して、定めを翻してしまいます。これは、信仰の基本
姿勢が、「絶対主にあって生きて行く」と定め切っていないからです。こういう人は、
いくら「御言をもらいましたから、そうします」と決めても、壁に打ち当ると簡単に
御言がふっ飛んで行ってしまい、御言に最後まで踏み止まることをしません。ですから、
クリスチャンは、まず「絶対主の国と絶対主の義を求め」、「絶対主に懸けて行く」という
定めた心があって、決断して行くものです。 |
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