『地上の残りの生涯は、絶対主のみこころの為に生きる』 |
クリスチャンの救いは、地上の御利益を得るためではなく、自分の犯した生涯の罪の
裁きから救われるためです。それは、キリストが、すべての人の贖いの代価として、
ご自身の命を差し出して下さったからです。ですから、そのことを信じた者は、魂の救い
を得て天での生ける望みに預かるのです。この罪人の救いは、地上の人間が自分の望み
通りに人生を過ごすためではありません。むしろ、天に望みを持ち、地上の自分に捕らわれ
ない生き方をするためです。なのに、私たちが自分のことばかり考え、自分にとって都合の
いい救いを追求しようとするのは間違っています。むしろ、キリストの贖いによって、天の
望みを受けた以上、たとえこの地上で報われない人生の中に置かれることがあり、その救い
を願って祈り求めても、絶対主はその祈りには関心を示されません。なぜなら、この地上は、
すでに終わりの時が近づいており、クリスチャンもこの終わりの時代の患難を通って行く者
だからです。だから、たとえこの地上で豊かさを経験して長生きしたとしても、それは幸いな
ことではありません。私たちの幸いは、天に貯えられているからです。ですから、クリス
チャンにとって、「地上の残りの生涯は、もはや人間の欲望のためではなく、絶対主の
みこころのために過ごすのです。」(Tペテロ4:2)それなのに、クリスチャンが今なお
自分の思いばかりに心を向け、自分のことだけに関心を抱き続けているなら、絶対主が
下さった救いを軽く考え、永遠の命の救いを軽んじていくことになります。
しかし、こんな罪人が本来裁かれる対象であったのに、絶対主が「お前の罪の償いをイエス
が全部したので、お前の罪は裁きの対象から外そう」とまで仰って下さっているのです。
ならば、「残りの生涯は、絶対主のみこころのために働かせて下さい。たとえ自分が苦手な
ことでも、絶対主のお考えであれば、何がなんでもやらせて頂きます。どうぞ、こんな役立
たずな者ですが、絶対主のみこころのために何でもやりますから、お力添えを下さい」と
祈って行くべきでしょう。このように祈って行くならば、取るに足りない、無きに等しい
自分でも、この命の価値を味わって行くこととなるでしょう。
そこで、この生き方をする
ために、絶対主のみこころを忖度(心中をおしはかる)し、絶対主が言われなくても、
積極的な心をもって仕えて行きたいと思います。また御霊様は、絶対主のみこころを忖度
して、私たちに教えて下さるはずです。この絶対主の御旨を察して自分の思いとして持ち、
残りの生涯を主のために心を使い、この私の命でも、絶対主から受けた意味のある命で
あったことを喜びながら、生き甲斐のある「残りの人生」を歩んで行こうではありませんか。 |
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