人は、「良い子振ろう」とする一面を持っています。なぜなら、子供の頃から、良い子
であれば親から褒めそやされますが、逆に親に逆らい、親の心を逆撫ですれば、
こっぴどく叱られるということを味わってきました。ですから、たとえ表面的であろう
が、「良い子振っても」人に褒められようとする根性は、必然的に身についてきたもの
です。また、それは学校教育の中でも必然的に起こっていた現実です。しかし、もう一方
の二面性として、人間は生まれながらに罪人であり、心の中には魔物が潜んでいる
という現実があります。ですから、人前では「良い子振る」振る舞いをしても、心の中を
覗けば、誰でも「ずるい心」を持っており、「労することを嫌う心」は、誰の心の
中にもあります。だから、絶対主の前には、その心が偽りであり、偽善であることは明白
です。ですから、いくら「良い子振っても」褒められるどころか、裁きの対象となると
いう一面も存在するのです。
すると、クリスチャンの場合は、どちらの側に立つことが正しいのでしょうか?
結論から言えば、人は「自分が褒められようとする行為とか、人に認められようとする
行為は、絶対主に嫌われます。」なぜなら、生まれながらの罪人の心の中には、魔物が
棲んでおり、いくら良い子振っても罪は消え去りません。絶対主は心の中の真実を
見分けられますから、心の中にある「ずるさ」とか、「身勝手さ」は、絶対主にすべて
お見通しです。それは、隠し通せるものではありません。ですから、むしろ自分の醜い罪
をそのまま認めて、偽善振らないことが、絶対主に受け入れられる道です。ということ
は、自分の内にある罪の存在を正直に認めた者が、キリストの罪の贖いの中に生きて行け
るのです。
ところが、罪を認めたにも関わらず、もし、クリスチャンであるが故に、尚自分の
正しさを表して行くことは「正しいことだ」と考え、「人に褒めて貰おうと考えたり、
人に認めて貰う事が、何故いけないのか?」と自分の義を表わして行くことが、「正しい
ことだ」と思っているクリスチャンが多いのです。しかし、はっきり言ってその人は、
「自分の偽善に気づいていない」と言うことです。クリスチャンは、自分の罪を自覚した
からこそ、イエス様の救いを信じたはずなのに、すっかりそのことを棚に上げてしまって
は、未信者時代に逆戻りをすることです。罪とは、自分が褒められて満足することを求め
る心です。それが、ルシファーの陥った罪だからです。だから、作り上げた偽りの正しさ
は、その人を傲慢にさせ、人を裁くようになって行くだけです。
そこで、結論としてクリスチャンは、どのような心で歩むべきかと言いますと、まず、
絶対主の前に人は罪人である事実と、自分の内にいる魔物の存在を認め、その罪人がする
行為はすべて偽善でしかないことを認識することです。その自覚を持つと言うことは、
正しいことをしなくても良いと言うことではありません。むしろ、本当は弱い人間であ
り、何をやってもまともに出来ない者ですが、主の助けを頂いて、一つでも二つでも、
一途な心で一生懸命していくことです。この遜りの心が大事なのです。そんな中で主に
助けて頂いて出来たことがあれば、そのことで人は傲慢になることはないでしょう。
むしろ感謝して主に「ありがとうございます」と遜っていけるはずです。この心こそが、
絶対主に受け入れられる心です。
どうか私たちの内にある間違った努力によって、「良い子振る」のではなく、遜った心
で、一生懸命努力していくことが、正しい振る舞いであることを認めていきましょう。
それは、見せかけの正しさではなく、罪を認めた遜りの行いこそ、絶対主に受け入れら
れる行いであるからです。
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