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事 務 室
2019年
NO.701
『
絶対主の側に乗っ掛った人生
』
クリスチャンの人生は、どんな事柄もすべて絶対主の側に乗っ掛って生涯を送らねば
なりません。それを逆な言い方をすると、ルシファーの側に乗っ掛って人生を送っては
いけないということです。例えば、もし「霊的なストレスを感じた場合、また肉的なス
トレスを感じた場合」、そのすべての
吐
(
は
)
け口は絶対主に対して行っていくべきなの
です。多くの場合、それを良い子振って吐き出さず、腹に
溜
(
た
)
めておくなら、腹の中に
は苦々しい不平不満の種が膨らんで行き、絶対主への不信感が
募
(
つの
)
って、
知らない内
に不信仰が絶対主に対する反抗心となって現れて来ます。
そして、いつか心の不満が人
に向かって発散することになります。そんなことをすれば、それは悪魔に向かって発散
することになり、傷を負うのは自分です。なぜなら、絶対主以外に心を向けることは、
世に心を向けることであり、この世の支配者は悪魔ですから、悪魔の支配に自分を委ね
ることになります。これこそ、悪魔の思う
壺
(
つぼ
)
です。すると悪魔は「ほい来た」と
ばっかりに、私たちの肉の思いを
煽
(
あお
)
り立て、不平と不満の虜にして、信じる者に
不信仰の心を
掻
(
か
)
き立てて来ます。ここから多くのクリスチャンは信仰から離れて行く
のです。この罠は、クリスチャンの多くが、
「絶対主に向かってストレスを発散すること
は罪だ」
と思わされているからです。
しかし、クリスチャンは悪魔に乗っ掛かっている者ではなく、絶対主に乗っ掛かって
いる者です。だから、たとえ肉の不満であろうが、霊的な不満だろうが、人間のストレス
の吐け口は、絶対主以外には向けてはいけないのです。なのに、「絶対主に向かって不満
を表明すれば、絶対主に反抗することになり、不信仰を表すことになるから、すべきでは
ない」と思わされていたのは、悪魔の策略以外にありません。なぜなら、この地上にいる
限りクリスチャンは罪人であり、肉の思いはなくならないのですから、その思いが、どん
なに肉的な思いであろうが、絶対主に乗っ掛かっている者なら、絶対主に在って解決して
行くべきです。
ところが、多くのクリスチャンが勘違いしているのは、絶対主に肉的な心を向ければ、
「叱られるだけだ」と思って、悪魔の方に心を向けてしまうのです。ところが、そうすれ
ば「悪魔によって解決しようとすることだ」と言うことに、気づいていません。その結末
は、悪魔の餌食となって、最後には、ユダのように、「自分で始末すれば良い」と悪魔に
突っぱねられて、墓穴を掘るだけになります。こうして多くのクリスチャンは、悪魔に
誘導されて絶対主から離れ、行くところを失ってユダと同じ結末に至るのです。
しかし、
私たちはどんなに肉的な問題も、絶対主に乗っ掛り、絶対主に解決してもらう
べきです。そうすれば、絶対主は、肉の問題も最善に導いて下さるのです。
たとえ肉の
問題を絶対主に
打
(
ぶ
)
ちまけて、八つ当たりしたとしても、罪ではありません。それは、
全ての問題を絶対主にあって解決しようとしているからであり、不信仰からしていること
ではない
からです。
罪人が地上で生きている限り、肉のストレスも、やりきれない不満も、当然起こって
きます。それを、悪魔に持って行くより絶対主に持って行って、お叱りを受けた方がクリ
スチャンにとって幸いです。ですから、これからは、どんなことでも絶対主に
打
(
ぶ
)
つ
けて行きましょう。そして、悔い改めるべきことは、絶対主に対して悔い改め、お願い
すべきことは、絶対主にお願いして解決してもらいましょう。これが、絶対主に生涯乗っ
掛って行くクリスチャンの正しい生き方なのです。
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