クリスチャンの歩みは、生涯キリストの贖いに乗っ掛かって、全ての問題を解決して
行く事です。なぜなら、賛美の中にあるように、「もう、自分の中の、何かには頼れない。
満ち足りていると勘違いしていた。誇れるものなんか、なかったのに。握ってたこだわり、
全部手放そう、心開いて。そして今、目の前に広がる、主の豊かさ受け止めよう。進めない
ように思うときも、導きは止まらない。握ってたこだわり、全部手放そう。心開いて。
そして今、目の前に広がる、主の豊かさ受け止めよう。」(ノア ミュージック ミニストリ-より)と
あるように、私たちの中には、もう自分に頼れるものはありません。そして、誇れるものなど
ありません。だから、心開いて握っていたこだわりを全部手放していくのです。
これまで、私たちには、罪人の自分を思い知らされながら、それでも「何でもかんでも、
自分の思い通りにしないと気が済まない」という強い我の中で生きてきました。しかし、
それはキリストに乗っ掛かって生きるクリスチャンの行き方ではありません。もし、何で
もかんでも自分の思い通りに出来るなら、キリストの救いは必要ありません。しかし、
私たちは生まれ乍らに、出来ないことが一杯あります。それでも、なんとか自分の
努力で克服しようと一生懸命頑張って来ました。しかし、出来ない壁に打ち当たって
来たのが現実です。それならば、もう、これからは他人に乗っかって、解決してもらう
しかありません。ところが、私たちには不必要なプライドをしっかり握っていた人間
です。ですから、たとえ人の助けを受けている中でも、体裁を繕い、なんとか
自分の考えも入れて解決しようとするのです。それは、教えてもらおうとする立場の
ものなら、身勝手も甚だしいことです。一体他人のために犠牲を払って教えてくれる人
が、この世の中にどれだけいるでしょうか? ところが、「キリストは、創造主の身分で
ありながら、あえて自らを空しくし、しもべの立場を取り、人の罪の贖いのために、
十字架の死に至るまで従い通して下さいました。」(ピリピ2:6〜8)ならば、私たち
は、このお方に完全にへりくだり、乗っからさせてもらって、このお方によって全ての
問題を解決して貰うしかありません。もし、キリストに乗っかって助けて貰うのならば、
自分のプライドと、こだわりを持ったままで助けて貰おうとする訳には行きません。
学ぶ者は、ただ、言われることを下手に出て聞いて行くしかないはずです。それが出来
なければ自分でするしかありません。だから、握っていたこだわりを全部手放すのです。
そして、心を開いて、イエス様から学んで行く時に必要な心は、空っぽの器になること
です。それは、自分の思いをゼロにして、余分なことを一切考えず、自分を明け渡して
言われることをそのまま聞いて行うとすることです。その心は、この世で教えてもらう
時も同じです。自分の考えを入れずに聞くのは、教えてもらうことの一番の近道で、
効率の良い学び方です。ですから、「乗っかる」というのは、この学び方をすること
です。すなわち、「握ってたこだわり、全部手放そう、心開いて。そして今、目の前に
広がる、主の豊かさ受け止めよう。進めないように思う時も、導きは止まらない。握って
たこだわり、全部手放そう。心開いて。」これが、乗っかる生き方の極意です。
|
|
|