聖書の悔い改めの意味は、「心の方向転換」を意味します。心の方向転換とは、使徒
行伝2:37〜38節に出てくるように「激しく心を刺されて」、「考えを入れ替える」こと
を意味します。即ち、聖書の悔い改めとは、私たちの心を180度入れ替える事を求め
ています。それをする為には、自分の「自我」を砕かないと心を180度入れ替えること
は出来ません。なぜなら、聖書の悔い改めは、単なる反省ではないからです。一般の
反省は、「自分の考え方が間違っていた事を認めること」で済まされますが、心の中
まで改めることは求められません。なぜなら、人間には人の心の奥底まで知ることは
出来ないからです。ですから、この世の反省は言葉だけの見せかけでも通用します。
ですから、多くの場合、心を変えなくても相手の考え方を頭に納めて、見せかけの反省
で終わらせてしまうことが多いのです。
ところが、そのような反省は、この世では通用しても、絶対主には通用しません。
絶対主は心の中を見通され、常に私たちの心の中の思いを問題にされます。なぜなら
心からの真実な行動こそ、本物だからです。ですから、クリスチャンは、心の中にある
自分中心な思いから離れ、「自我」を砕いて、「絶対主の思いを汲み取った判断」に切り
替えて行く必要があります。ということは、自分の考えに留まっていては、絶対主の
考えに切り替えることは出来ませんので、自分の頭で「あれこれ」考えている思いを、
あえて打ち消す作業をしなければ なりません。それは、自動的に出来るものではあり
ません。ですから、あえて自分のプライドから離れ、自分の言い分をひとまず横に
置いて、聞こうとする「へりくだりの心」を、身につけて行く必要があります。この心の
作業は、生まれながらに我の強い、自立心に長ている人間には難しい事です。
しかし、私たちが罪人であることを自覚し、絶対主の前に生きていく事を願うなら、
この心の作業は習慣的なものにして行かなければなりません。そうしないと、いつまで
経っても絶対主の考え方が分からず、自分の単なる感で絶対主に従って行くことに
なります。そんな生涯では、命を閉じた後に後悔するだけです。全てが、絶対主の前に
明らかになる時があり、「お前は、いくらわたしのために生きて来たと言えども、一つも
わたしの願い通りにせず、わたしの願いを心に留めなかった。ただお前は、わたしを
利用し、自分のために生きて来たに過ぎない」と言われてしまいます。
これでは、命を閉じた後に、キリストを信じた生涯が無駄であり、ただ歯ぎしり
することになります。ですから、今「考えを入れ替え」、「心の方向転換」をして、まず
自分が「あれこれ考える癖」を改め、自分の考えから離れて、絶対主の考えをまず心に
留める聞き方を始め出すべきです。そして、絶対主の考えを受け止めたものを、行動で
表し、「心を180度変えたこと」を証して行くのです。それが、聖書の示す正しい
悔い改めであり、私たちが命を授かった正しい命の使い処なのです。
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