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2019年 NO.662


悔いし砕かれた心の定めとは


 クリスチャンの心の中には、二つの心があります。一つは、魔物の影響を受けた肉の心

(肉の良心も含む)と、御霊の影響を受けた霊的な心の二つがあります。ですから、クリ

スチャンの心は、間違いなく「二心」です。そこで、クリスチャンの場合、「心の中の

どちらの思いに意識を向けて考えるか」ということが日常の生活の中で大切な問題になり

ます。生まれながらの人間は、御霊の影響を受けた心は持っていませんので、心の中の

思いは魔物の心(不義・邪悪・貪欲・情欲・悪意・妬み・争い・殺意・詐欺・ずる賢さ・

陰口・誹り・横柄・不遜・高慢・大言壮語・親に逆らう・約束を破る・執念深い・無慈悲・

恨み・絶対主を憎む・情け知らず・自分勝手・等)と、肉の良心(良心は自分勝手にコロ

コロ変える)によって、支配されています。だから怒られた時、自分の心の中の悪がその

原因であることは本人が一番良く分かっています。しかし、あえて心の中の罪を見て落ち

込むのを嫌い、表面的に「申し訳ありません」と口先で謝って終わらせようとする身勝手な

習慣が身に付いています。ところが、クリスチャンは信じた時に、イエス様から「真理の

御霊」(ヨハネ1416)を送って頂いたので、新たに心の中に御霊の思いが入れられ

(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)て、この霊的な心で考え、

御霊によって歩む生き方が出来るようになりました。しかし、現実は肉の心が一つも無く

なっていないので、無意識に肉な思いで考え、「ふっー」と知らないうちに自分中心な

思いになってしまいます。すると、心が絶対主の側に立って生きて行くことから離れ、

魔物の心が支配し、その声にそそのかされて妥協して行く自分に成り下がってしまいます。


しかし、クリスチャンは、そこに留まっていてはいけません。いくら弱い自分であっても、

自分の心は絶対主にあって生きて行きたいと思っているのですから、その霊的な心が本心で

あるなら、心の中の霊的な思いで考えるように、意識を変えて行くのです。
意識は自分で

どうにでもなります。自分の願っている霊的な本心に、強い意識で向かって行くことは、

たとえ弱い罪人であったとしても、それは出来ます。
そして、自分の意識によって心を

変えて行くことは自分を騙すことではありません。その心の行為を魔物がバカにしても、

霊的な本心で考え、絶対主の側に立つことは正しいのです。すなわち、クリスチャンは

霊的な心で考える習慣を当たり前にして行くのです。たとえ、自分中心な人間に成り

下がったとしても、「私はあえて霊的な心を大事にして行く」と、心を定め直して行けば

いいのです。心を定めた後に、また失敗して怒られたとしても、正直に自分の心の中の罪

を見て、その過ちの責任は自分にあることを認めて「悔い」、悔いたその心をもって

謝り、その心は悪ですから、自分から「砕き」、その後は、イエス様にあって新しい心で

前向きにやり直して行けばいいのです。
これは、何度でも繰り返し、「悔いし砕かれた心」

を表して行くことです。絶対主は、その「砕かれた心」で良いと言って下さるのです。

絶対主が求められるのは、正しい人間になることではありません。「罪人は『砕かれた心』

を持つならよし」と言って下さるのですから、この「砕かれた心」に向かって行くと定め、

この定めの決断をして行こうではありませんか。



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