「人の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、
欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴、これらの悪はすべて内側から出て、人を汚すの
です」(マタイ7:21〜23)。人の語る言葉は、心からあふれ出ることを語ります。
そして、もし心の中に傲慢の思いが満ちてくると、人は邪悪な言葉が溢れ出て、高慢ちきな
人間になってしまいます。その原因は、人間の心の中には全ての人に、魔物の心が住みつ
いているからです。だから聖書は、「人は生まれながらに罪人です」と宣言しているの
です。その証拠に、「人は善をしたいと願っているのに、したくない悪を行ってしまい
ます」。また、「善をしようと願っている私に、悪が入り込んでいるという 原理を見い
出すのです」と、聖書の中にあります(ローマ書7:19-21)。このことは、私たちは
認めたくなくても現実のことです。だから、人は自分の心を見たくありません。見れば、
醜い自分の姿を思い知らされるだけです。これが現実ですので、私たちは自分の心を
見ようとしません。だから、クリスチャンでさえ「罪が分からない」と言います。
それは、自分の罪に気付こうとしない習慣が身に付いているからです。ですから、心に蓋を
して心の中の罪を見ず、ただ頭だけで反省し、如何にも「悔い改めます」と、もっともら
しく謝って終わらせるのです。
このような習慣の中にある人は、決して絶対主と繋がることはありません。
なぜなら、「人はうわべを見るが、ヤハウェは心を見ておられる」(Tサムエル16:7)
からです。ですから、私たちがクリスチャンであるなら、当然絶対主と繋がる考え方を
持たなければなりません。そのためには、心の中の罪を直視して行く必要があります。
そうすれば、邪悪な思いに満ちている自分の姿に遭遇することでしょう。しかし、それが
本当の自分の姿ですから、この罪深い人間を救うために贖いをして下さったイエス様の
十字架の意味が良く分かって来るはずです。しかも、心の中の罪は命を閉じる時まで
決して消えることはありませんので、一生を終えた時に、その生涯の罪の贖いが全部
イエス・キリストの御陰で実現していることに感動するでしょう。
このことが分かれば、私たちはこの地上にいる限り、心の中の罪を棚上げにしてはいけ
ません。心の中の罪を直視し、そのためのキリストの贖いがあることを覚え、その罪に
対する「悔い」と「へり下りの心」は、一生涯自覚して行くものです。ところが、その
「悔いし、砕かれた心」を絶対主は「決して蔑まない」と言って下さる(詩51:17)の
ですから、クリスチャンは、自分の心の蓋を取り払って、自分の心の内面を直視し、
「砕かれた悔いし心」を、一生涯持って行くのです。この心を自覚している人は、
もう人に反発し、反抗することはしないでしょう。なぜなら、自分こそ罪人の頭である
ことが分かりますから、人を裁き反発することは出来ません。すると、絶対主にも反発
せず、へり下って仕えて行けるようになります。絶対主は、この心を持った者を使いたい
と願っておられます。どうか「砕かれた悔いし心」がクリスチャンの最低限の信仰の
心であると自覚し、この心を土台とした信仰を持って絶対主に仕えて行きましょう。
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