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2019年 NO.660 |
絶対主が罪人の人間に求めておられるのは、「砕かれた心」です。詩篇51:16〜17節には 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを望まれません。絶対主へのいけにえ は、砕かれた魂、砕かれた悔いし心。絶対主よ!あなたはそれをさげすまれません」とあり ます。この「砕かれた心」は、絶対主の前に信者も未信者も必要な心です。 特にイエス・キリストの救いに預かった人は、この砕かれた心を土台にして、絶対主を信じ、 絶対主に従って行くのです。 では、この「砕かれた心」とはどんな心なのでしょうか?それは、「自分ありき」の心から 「絶対主ありき」の心に、自分の心の立ち位置を変えて行くことです。クリスチャンは、自分 の罪に気づき、自分が罪人だと分かった時、「自分ありき」の心から「絶対主ありき」の心に 変えて信じたはずです。また、クリスチャンが献身の心を持った時、やはり「自分ありき」の 心から「絶対主ありき」の心に変えたはずです。それは、私たちの心の中には魔物が住み着いて おり、魔物は私たちの心をいつも自分勝手な考えに立たせます。それは、アダムとエバが悪魔の 言いなりになることを決めた時からです。ですから、クリスチャンは、その言いなりになる 相手を間違えていることに気づくべきです。 ですから、絶対主の前に生きることが分かったクリスチャンは、絶対主の言いなりになる心に 変えて行く必要があります。キリストの救いを信じた時には、そのようにすると決めたはず です。しかし、いつの間にか、魔物の声に聞き従うように唆されて落ちてしまったの です。ですから、今一度信じた時に戻り、明確に心の立ち位置を「絶対主ありき」に変えて 行かねばなりません。この絶対主ありきの心は、「絶対主を重んじる心」です。また、自分が 他人に対してへり下りの心をもって、「互いに人を自分より優れた者と思いなさい」 (ピリピ2:3)とあるように、目上の者に対して、重んじる心を持つことです。しかしながら、 今の時代は、自分が正しいと思うとすぐ反発し反抗します。自分の考えを主張するのが正しい 生き方だと思っているからです。だから、男も女も同等だと考え、たとえ目上の者であっても、 自分が正しいと思えば、聞き従おうとはしません。これが今日の教育です。しかし、この考え 方は絶対主の前に通用しません。なぜなら、全ての人間は罪人ですから、自分の考えが正しい とは言い切れないからです。ですから、クリスチャンは絶対主の創造の秩序に従って、 「目上の人を重んじる心」の立ち位置に変えて行くべきです。その心の定めを持つと、 「絶対主を重んじる心」へと魂は自然に変えられて行くでしょう。その時、初めて「砕かれた 心」を持って絶対主に従う道が開かれて来ます。「絶対主へのいけにえは、砕かれた魂。 砕かれた悔いし心」です。その心の立ち位置に変える定めをして、人は、絶対主の御心に仕え 従って行くのです。この聖なる決断を、心の立ち位置を変えて表して行きましょう。 心の立ち位置を変えなければ、いくら反省をしても自分に言い聞かせているだけで、決して 生き方は変わって行きません。このことを肝に銘じて、まず「心の定めありき」を始め出し ましょう。 |
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