2019年6月9日
『新しい創造の生き方へ』
ガラテヤ人への手紙6:14~18
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(起)ガラテヤ6章14節の御言葉から、「自分自身の肉から離れ、この世の価値観、この世
の常識の中で生きる生き方から転換して、新しい創造の生き方の中に踏み出すこと」を学んで
行きたいと思います。
(承)さて、14節を見ますと、「私たちにとって、私たちの主イエス・キリストの十字架
以外には、誇りとするものが、決してあってはなりません」とあります。イエス様は一つも罪
を犯されなかったにも拘わらず、 罪人の一人として、二人の強盗の間に挟まれ、十字架に
つけられて死なれました。それは、罪人の贖いのために、身代わりとなって死ぬことの象徴
でした。実に、全能主の御子イエス様がそこまでして下さった救いに預かっている者と、そう
でない者では、雲泥の差があります。だから、もし私たちに誇りがあるとすれば、イエス・
キリストの十字架以外に誇りはありません。しかし、イエス様の十字架を信じたからといって、
現実の私たちが、罪のない人間になったという訳ではありません。その救いは、私たちが天に
上げられる時に、この身に起こることです(ヘブ9:28)。ですから、罪人の私たちでも、
天に上げられるときには、イエス様が私たちの罪を贖っていて下さったが故に、私たちは罪の
責めを負うことなく天に上げて頂けるのです。そういうわけで、救われたクリスチャンの地上
の立場は、14節を見て行きますと、「この世は私たちに対して十字架につけられ、私たちも
この世に対して十字架につけられてしまった」(アオリスト形)とあります。すなわち、救わ
れた者の地上の立場は「既にキリストに在って、世は死んだものであり、同時に、私たち自身
も死んだもの」ということになります。ならば、私たちはもう「肉にあって生きていても、
肉の性質に従って生きる義務を負っていません(ロマ8:12)。すなわち、この世の価値観、
この世の常識の中で生きて行く必要はないということです。それなら、パウロさんが言うよう
に、「自分自身を認めてもらうために、人に取り入ったり、人の歓心を買うために心を用いる
必要はありません(ガラテヤ1:10)。例えば、これからやってくる患難時代では、実際に
は無実であっても、濡れ衣を着せられて殺されることがあるかも知れません。しかし、私たち
はその場から逃げ出そうと必死になる必要はないのです。なぜなら、私たちは既に世に対して
死んだ者であり、たとえこの地上で殺されることがあっても、イエス様の贖いの故に天に迎え
入れて頂けるからです。この意識の中で生きて行くことが、「新しい創造の生き方」
(ガラ6:15)なのです。
(転)しかしながら、このことが頭だけで分かったとしても、「新しい創造の生き方」は
始まりません。なぜなら、この世の常識、この世の価値観にとらわれないで、全能主の価値観
で生きて行く生き方は、この世で生きている人間には通用しないからです。となると、私たちが
「新しい創造の生き方」を始め出すためには、「たとえこの世で受け入れられなくても、自分
は全能主にあって生きて行く」という私たち自身の意思と定めが必要なのです。私たちの心を
全能主に向け、「全能主の国と全能主の義を第一にする」ことが当たり前になっていなければ、
「新しい創造の生き方」による判断と行動は出てきません。また、霊的なレベルアップもあり
ません。霊的な世界とは、私たちが今まで地上で味わったことのないものを経験して行く事
ですから、この世で、自分のこだわりを持っていたら味わえません。どこまでも全能主に懸け
て行こうとする心が必要です。即ち、この世の常識、この世の価値観から離れて、霊的な常識、
霊的な価値観に心を向けて行くことです。この世の常識、この世の価値観に捕らわれて、地上
での立場を守りながら霊的な レベルアップを求めて行くことは不可能です。だから、「まず
第一に、全能主の国と全能主の義を求めなさい」とあるのです。確かに、現実の私たちには肉
の性質があります。だから、肉の思いが御霊による歩みを妨げ、御霊の思いに逆らわせます
から、「まず第一に、全能主の国と全能主の義を求めて行く」と、決めておくことが必要です。
(結)こういうわけですから、どうか、「全能主の国と全能主の義を求めて行く」と決断し、
どこまでも全能主を追い求める心を表して行きましょう。その意識がなければ、たとえ御霊の
満たしを受けたとしても、結局は自分自身の肉に留まることになり、せっかく頂いた賜物も、
自分自身の肉の都合で使うことになってしまいます。全能主はそれを懸念しておられます。
ですから、私たちは自分自身の肉から離れ、この世の価値観、この世の常識で考える生き方を
見切って、「たとえ地上の友から誤解され、馬鹿にされる」ことがあったとしても、自分の
立ち位置をふらつかせてはいけません。「どこまでも、全能主を追い求めて行く」と決断す
べきです。どうか、この「新しい創造の生き方」を大胆に始め出し、一歩を踏み出して行こう
ではありませんか。 |
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