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2019年6月2日

全能主の側の人間として、物事を理屈で考える

ガラテヤ人への手紙2:11~21


(起)ガラテヤ2章11節からのペテロとバルナバについての記事から、「全能主の側の人間

として、全能主の理屈で物事を考え、常に全能主に焦点を合わせて行く生き方」を学びたいと

思います。


(承)さて、ここでは、ペテロとバルナバがアンテオケで異邦人との交わりを持っていた時、

ある一つの出来事についてパウロが指摘しています。その出来事とは、ペテロとバルナバは、

エルサレムからユダヤ人が来るまでは異邦人と共に食事をしていたのに、ユダヤ人が来た途端

に態度を変え、異邦人から離れて行った偽善の行為について語っています。ペテロとバルナバ

は、「人間は律法によって義とされるのではなく、イエス・キリストの贖いによって義とさ

れる」という新しい真理を知ったにも関わらず、ユダヤ人から、「あの人たちは律法に背き、

罪を犯している」と言われるのを恐れて、身を引いたのです。これは、私たちにも良くある

ことです。
人の手前を気にすると、人から悪く思われたくないために当事者であったはずな

のが、他人のように装ってしまうことが良くあります。
それは、自分よがりな信頼を裏切る

行為です。確かに、ペテロさんたちはイエス様を信じてからは、律法から解放されて歩んで

いました。しかし、それはユダヤ人として全能主を信じていることを否定することではあり

ません。むしろ、イエス様は全能主から出られた救い主として信じていたことです。だから、

他のユダヤ人から、全能主を否定しているものと誤解されたくなかったのです。全能主は

最初、全てのユダヤ人に「律法を守る者を義とする」と言われていました。しかし、ユダヤ人

は律法を守ることができませんでした。となると、律法の契約を破った者として、呪われて

全能主の裁きを受けなければなりません。しかし、ここでユダヤ教徒とは違う一面を、パウロ

さんたちはキリストから教えられて、律法からは解放された救いを宣べ伝え出しました。

それは全能主が、全能主の御子であるイエス様をこの地上に送られ、「イエス・キリストの

十字架の贖いを信じる者を義とする」という救いの道を開いて下さったからです。この新しい

約束が与えられてからは、ユダヤ人と異邦人の区別は無くなり、ユダヤ人と異邦人が共に食事

をすることも、会話をすることも許されたのです。なぜなら、
イエス・キリストの贖いは、

ユダヤ人も異邦人も関係なく、すべての人間に与えられた救いの道だったからです。
それを

ペテロもバルナバも、その真理を知って宣べ伝えていたにも拘わらず、ユダヤ人の目を恐れ、

異邦人から身を引いてしまったのです。


(転) では、ペテロとバルナバは、なぜそのような行動をとってしまったのでしょうか。

それは、「人から誤解されて、後ろ指を指されたくない。エルサレムの住民として、ユダヤ人

から認められていたい」という感情が先立ったからです。すなわち、人に取り入ろうとして

「自分を守ろうとする心」が働いたのです。この思いは、ペテロとバルナバだけでなく、すべて

の人間が持っているものです。しかし、人間は生まれながらに罪人で、何一つ義はありません。

だから、いくら「これは正しい」と思っても、人に対する行為には、どこまでも自分の損得が

働くのです。ということは、「人からどう思われるか。人はどう見るか」ということが気になり、

感情が先立ち、全能主の側の人間であることから離れてしまうのです。この生き方は全能主が

一番嫌われることです。むしろ、私たちはイエス様を信じ、全能主がおられることを知ったの

ですから、全能主の側の人間として物事を見て、自分はどうすべきかを考えて行かなければ

なりません。すなわち、「私はこう思うから、こうする」と、自分の肉の側で理屈を考えるの

ではなく、「私は全能主の側の人間だから、こうする」と、全能主の側の理屈で物事を決めて

行くことです。そのように、私たちの物の見方、考え方を変えて行くことが、ローマ書12章

2節にある「自分の心を新たにすることによって、何が全能主の御旨であるか、あるいは何が

善であって、全能主に喜ばれ、かつ全きことであるのかをわきまえ知るために、変えられ続け

なさい」という御言葉の意味なのです。そして、
最後の部分が「変えなさい」ではなく「変え

られ続けなさい」となっているのは、
(動詞が受動態の現在命令形、ギリシャ語では現在形は

継続も表します)
自分に根拠を置いて、自分の努力で自分を変えて行くのではなく、どこまでも

イエス様に頼り続け、全能主にあって生きて行こうとする心に変えるところから、始め出して

行くことだからです
(ガラ2:20)。ですから、私たちがいくら自分の頭を使って理屈をこねて

考えても、それはどこまでいっても自分勝手な理屈です。また、私たちの感情も自分勝手な

思いです。そんなもので全能主の前に自分の正しさを主張しても、何の意味もありません。

私たちは、自分に根拠を置き、自分の力で義を立てるのではなく、キリストに在って新しい

考え方によって歩み出すのです(ロマ6:4)。ですから、ここから始め出しましょう。

そして、私たちはイエス様を通して全能主の側の人間とされたのですから、全能主の側に立っ

て物事を見て生きて行くのです。これが全能主の前における正しい理屈です。


(結)この理屈が分かったら、あとは
「全能主に根拠を置いて考え出す」という習慣が必要

です。
この決断をしなければ、私たちはいつまでも自分勝手な信仰を持ち続けることになり

ます。それでは、たとえ聖霊の満たしを頂いて力を受けたとしても、その力を、自分自身の

感情と自分自身の理屈で自分勝手に使ってしまうことになりかねません。だから、私たちは

今、力を受ける前に、
全能主の理屈に基づいた正しい信仰を持つべきなのです。私たちはもう

自分の義を立てる必要はありません。
全能主が誉めたたえられ、全能主の義が表されて行く

ことがすべてです。
私たちは、全能主に造られたしもべとして、一つでも二つでも全能主の

働きに使っていただくために、自分の生涯を懸けて行くのです。
どうか、この土台にしっかり

と立ち、全能主の側の人間として、全能主の理屈で物事を考え、常に全能主に焦点を合わせて

生きて行こうではありませんか。


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