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2019年5月26日
「ローマ書の真理」の解き明かし

ローマ人への手紙1章~12


(起)「ロマ書の真理」を解き明かしつつ、「聖霊のバプテスマによって、信仰の従順の中を

歩む」ことを学びたいと思います。


  さて、ロマ書を学んで行くにあたって、大切なところを抑えながら、1章から順に見て行き

たいと思います。まず1章の書き出しを見ますと、「キリスト・イエスのしもべパウロから、

ローマにいる、全能主に愛され、召された聖徒たちへ」とありますから、この手紙は、
ローマ

にいるクリスチャンたちに宛てて書かれた
ことが分かります。ローマには、異邦人のクリス

チャンはもちろん、ユダヤ人のクリスチャンもいるので、すべてのクリスチャンに向けて

書かれた手紙だと言っても間違いではありません。そして、5節と11節に、「すべての

諸国民に主を信じ仰ぐ心の従順をもたらすため」(5節)、「私はあなた方に、御霊による霊

の賜物を幾らかでも分け与えて、力づけたい」(11節)とあるように、パウロは、ローマに

いるクリスチャンたち一人一人が、
「御霊の賜物」、すなわち「聖霊のバプテスマ」を受け

て、
「信仰の従順の中を歩んでほしい」という願いを込めて、この手紙を書いたのです。

 では、その前提を踏まえて、1章16節以降を見て行きましょう。


 16節からは、「福音とはどのようなものか」について記されています。17節を見ますと、

「福音の中に、全能主の義が明らかにされている」とあります。すなわち、福音とは、全能主

の義を啓示するものであり、人間が自分自身の義を立てることではないことを明らかにして

います。人間は元々罪人ですから、いくら義を立てても罪が消えるわけではありません。

また、正しい人間になるわけでもありません。生まれながらに罪人の私たちは、たとえ正しい

ことをしたとしても、或いは正しいことを言ったとしても、それで義とされるわけではない

のです。そんな、私たちが、全能主の前に義とされる道があるとしたら、それは「イエス・

キリストの贖いによる義」以外にありません。そして、「
イエス・キリストを信じる信仰に

よって生きて行く」ことが、全能主の前に義とされた者の生き方です。
これが福音です。

しかし、もう一方で、「福音の中には、人間の不義(罪)に対する全能主の怒りも啓示され

ている」(18節)とあります。基本的に
人間の罪の原点は、「全能主を全能主として信じ

ない」ところ
にあります。全能主を全能主として信じない人間は、当然の如く全能主から離れ、

自分の思い、自分の考えの中で生きて行こうとします。すると、その人間はどのような罪の中

に入って行くのかということが、29節以降に具体的に記されています。しかし、ここに

記されていることは、すべて私たち自身にも当てはまることです。だから、私たちはここを

読むと、自分自身の心の中がどんなに醜い罪で汚れているかを思い知るのです。ところが、

私たちは、
自分自身がそのような罪人であることを分かっていながら、外側だけは義人ぶって

しまうところがあります。
醜い罪をたくさん持っているにも関わらず、正しいことを言うこと

によって自分の罪を誤魔化し、棚に上げ、如何にも正しい人間かのように装うのです。

特に、ユダヤ人は律法を知っていますから、全能主の前における善し悪しを知っています。

ですから、それを知らない異邦人たちを見ると、「あなた方は全能主の前に罪を犯している」

と厳しく裁いてしまうのです。そのときには、
「彼ら自身も律法を完璧に守っているわけで

はない」という事実は棚上げにされています。



 そこでパウロは2章で、そのようなユダヤ人たちに対して、「すべて人を裁く人よ。

あなたには言い訳がたちません。なぜならあなたは、他人を裁くことによって、自分自身を

罪に定めています。というのは、裁くあなたも、同じことを行っているからです」(2:1)

と厳しく指摘しました。すると、このパウロの指摘に反論したいユダヤ人たちは、パウロに

対して色々な質問を投げかけます。まず3章1節を見ますと、「では、ユダヤ人の優れて

いる点は何ですか」とあります。ユダヤ人たちは、「自分たちは世界中の人類の中から選ばれ、

全能主から特別に戒めを頂いた民だから、異邦人とは違う」という誇りを持っていました。

ところが、あまりにもズバッと罪を指摘されてしまったので、「じゃあ、私たちユダヤ人に

優れた点はないと言うのですか」という疑問が彼らの内にわき起こってきたのです。そこで、

パウロは、「全能主の戒めである律法を頂き、それを委ねられたことは確かに優れている」

(3:1)しかし、だからと言って、「外見上のユダヤ人が、ユダヤ人ではない。」と答え

ました。すると、ユダヤ人たちはその答えを受けて、「全能主は私たちユダヤ人を信頼して

律法を委ねられたのに、その私たちのことを罪人だと言われるなら、ユダヤ人を信頼した

全能主の真実が無に帰するのではないか」(3:3)と質問します。そこでパウロは、

「決してそうではありません。全能主は罪に左右される方ではなく、最初から最後まで義なる

お方ですから、いくらユダヤ人が背いたからと言って、それで全能主の義が損なわれる訳では

ありません」(3:4)と答えました。すると、更にユダヤ人たちは、「全能主の義が損な

われることがないと言うなら、私たちが不義を犯せば犯すほど、全能主の義が明らかになる

のではないですか。」(3:5)「それなのに、何故全能主は私たちを裁かれるのですか」

(3:7)とたたみかけます。



 このように、彼らはユダヤ人としての自分たちの誇りを必死に保とうとしているのです。

しかしながら、パウロは、「ユダヤ人たちには、何か(まさ)ったところがあるのですか。」

と聞かれ、それに対して、「もちろんありません」と答えます。なぜなら、「ユダヤ人も

異邦人も、すべての人が罪の下にあり、義人は一人もいないからです」(3:9~)と

はっきりと語りました。これは、全能主の側から見た見方です。確かに、全能主の側から

見られた時、私たちの中に義は一つもありません。そんな人間だからこそ、私たちはイエス・

キリストの贖いが必要だったのです。だから、私たちの救いの原点はイエス・キリストの贖い

であって、自分の行いではありません。それなのに、「正しいことをします。良いことを

します」と主張することによって、いかにも
自分が正しい人間であるかのように見せかよう

とするのは間違っています。
それは、自分自身が一体どういう者であるかを、全能主の側から

見ていないからです。それは、今なお律法によって義とされようとする心が残っているという

ことです。全能主は、「人間にそんな力はない」ということを教えようとされたのです。

そのことは、アブラハムの場合も同じです。彼は、何とか自分の力で後継者を残そうとして

イシュマエルを選びましたが、全能主はそれを退けられました。結局、アブラハムも、彼自身

の行いによって義とされたのではなく、ただ全能主を信じる信仰によって義とされた者です。

そのことを、パウロは4章で解き明かしました。


すると、その話を聞いたユダヤ人たちが、6章からまた質問をし始めます。6章1節を

見ますと、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中に留まるべきでしょうか」と言い

ました。彼らは、「私たちは行いを表すことが出来ない罪人で、救いは恵みによるしかない

のだから、私たちは罪人のままでいいということですね」という言い方をしたのです。

これに対して、パウロは、「決してそうではありません。私たちの古い人は、キリストと

共に十字架につけられました。それは、この罪の体が滅ぼされて、もはや私たちを罪の奴隷

として仕えさせないためです」(6:6)と答えました。「罪の奴隷として仕えさせない」

というのは、すなわち、「自分自身に根拠を置かず、全能主だけを仰ぎ見る」ということ

です。


 
 ところが、7章に入ると、パウロは自分自身の内側を見て、初めて本心を明かしました。

9節を見ますと、「私はかつて、律法から離れて生きていましたが、戒めが来た時に、罪が

息を吹き返し、私は死にました」とあります。パウロは、イエス様と出会い、イエス様を

信じたことによって、律法から解放され、ただ全能主に感謝して、律法なしで生き始めて

いました。しかし、「こういう生き方は人前では通用しない。だから、きちんとした自分自身

を人前に表して行くべきだ。自分も律法を守る立場にあったのだから、ユダヤ人に福音を

語る以上、しっかりと律法を意識して歩んで行かねばならない」という戒めが、パウロの

心の中で再び息を吹き返したのです。ところが、「律法を守れない自分に気づき、自分は

もうダメだ。イエス様を信じても、自分は正しい人間になったわけではないし、自分はどう

したらいいのだろう」という中に陥ってしまいました。そして、「私は死にました」と告白

したのです。更に、「私の性質の中には、善が宿っていないことを、私は知っています。

なぜなら、善をしようとする意志はあっても、それをする力がないからです」(7:18)

と言いました。すなわち、「善をしようとする意志を持って、口では『こうします』、

『ああします』と言っても、実際にはその通り出来ない自分がいる」という現実をパウロは

告白したのです。そして、「私は罪の原理の中に虜にされている。本当に自分は惨めだ」と

気付きました。


 
  では、そんな惨めな人間に解決の道はあるのでしょうか。8章では、「御霊の法則がそこ

から解放する」(8:2)と書いてあります。御霊の法則とは、「イエス様が私たちの罪を

処罰して下さったことによって、律法の行いによらず、ただイエス様の贖いによって義と

される」(8:3)ということです。そして、「肉の性質に従って歩まず、御霊によって

歩むことである」(8:4)とあります。「肉の性質に従って歩まず」とは、出来もしない

のに「自分はこれをやります、こうします」という嘘をつかないことであり、自分自身に

根拠を置かないことです。すると、「御霊によって歩む」とはどういうことでしょうか。

9節を見ますと、「御霊」は「御霊」でも、「キリストの御霊」と「全能主の御霊」と区別

されています。実は、「キリストの御霊」とは「内住の御霊」のことであると、(ヨハネの

福音書20:22~23)に記されている、イエス様が、弟子たちに、息を吹きかけて、

「聖霊を受けなさい」と言われた内住される御霊の事です。「全能主の御霊」とは、「聖霊

のバプテスマ」のことです(使徒1:4)。それは、全能主が約束された「父の御霊」の

ことです。これは、明らかに、ペンテコステの時に与えられた「聖霊のバプテスマ」のこと

です。それを理解した上で11節を読んで行くと、「もし、イエスを死人の中から甦らせた

方の御霊(全能主の御霊)が、あなた方の内に住んでおられるなら、キリスト・イエスを

死人の中から甦らせた方(全能主)は、あなた方の内に住んでおられる御霊によって、

あなた方の死に定められた体も、生かして下さいます」となります。ところが、今現在、

私たちはキリストの御霊(内住の御霊)をもらっていても、罪の中で苦しんでいる者です

(10節)。しかしながら、そんな私たちも、全能主の御霊(聖霊のバプテスマ)によって

生かされるということです。だから、私たちは聖霊のバプテスマが必要なのです。


 ところが、聖霊のバプテスマが、なかなか与えられないのは何故でしょうか。それは、

私たちが罪の原点に立っていないからです。すなわち、「自分はどうにもならない罪人

です。何の力もありません」という基本に立っていない
ということです。全能主は、そう

言う者のためにイエス様を遣わして下さったにも拘わらず、その基本に立っていない者に、

聖霊のバプテスマを与えたのなら、罪人の自分を見なくなり、出来る自分だけを見て誇る

ようになってしまいます。すると、
ルシファー(堕落した天使長・サタン)と同じ、傲慢な

者になってしまう
のです。だから、私たちは100%罪人であったからこそ、イエス様の

贖いを信じました。ならば、自分に根拠を置くことはできないはずです。すなわち、「これ

やります、あれやります」とは言えないはずです。そんな罪人ですから、私たちは
全能主

に根拠を置き、いつも全能主の側から物事を考えて行く
のです。私たちがこの「悔いし

砕かれた心」を持って始めれば、全能主は「それで良い」と言って下さいます
(詩篇57

16~17節)。これが、ロマ書の中に記されている真理なのです。



 しかしながら、12章1節を見ますと、「あなた方の体を、全能主に喜ばれる、生きた、

聖なる供え物としてささげなさい」とあります。このように、自分の行いでは義とされない

者に、
なおも行いを求められるようなことが書いてあるのは何故でしょうか。この御言葉の

真理は、「肉の行いによ
って全能主に義と認
められよう」という動機ではなく、1章で

語られていた通り、「恵みによって救われた者として、霊的な行いを聖霊のバプテスマを

受けて、信仰の従順の中を歩んで行くこと」を前提として勧めているのです。すなわち、

私たちがこのような生き方をするのは、律法によって義とされるためではなく、キリストに

よって生きる者とされた自分自身の献身の証しの一つとして、自らこのような生き方を始め

出すためなのです。そのことを、パウロは、順序立てて解き明かしたのです。このことを

パウロは私たちに示していたのです。
このように、1章から順に「ロマ書の真理」が解き

明かされ、すべては「悔いし砕かれた心を持ち、信仰の従順に至るため」の学びであった

ことが分かります。どうか、自分に根拠を置き、自分に律法を課して生きて行くのは止め

ましょう。そのように、罪人が必死に自分の義を表そうとすることほど醜いことはあり

ません。それは、自分の行いで一つでも義を表すことができれば、それはイエス・キリスト

の十字架が無駄であったことになります。それは絶対にいけません。私たちは何も出来ない

罪人だからこそ、イエス・キリストの十字架の贖いがあったのです。そして、そのことを

信じて救われたのです。ならば、罪人の中から良きものは何一つ出て来ない100%罪人

の自分であることをまず認め、そんな中で、キリストの救いによって新しい歩みの中に歩む

者とされましたので、
まず「悔いし砕かれた」を土台としてイエス様に頼り、少しでも、

自分の手足を全能主に献げて、勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えていくために変えられ

続けて行くようにすることは、霊的な良き行いとなる
のです(ロマ12章1~2節)。

この真理をいつも全能主の側から見て考えて行こうではありませんか。そして、聖霊のバプ

テスマを頂いて、信仰の従順の中を力強く歩む者とされて行きましょう。

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