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2018年 NO.632 |
キリストの救いは、人間が罪のドン底にあり到底自分で自分を救えないため、絶対主は、 人間を救うためにご自分の御子に命じて、「人間の罪の償いのために、代わりに死んで来い」と 言われたのです。そこで、キリストは、「創造主の身分であられたのに、自らを空しくして、 しもべの姿を取り、人間としての有様をもって来られ、自ら低くし、十字架の死に至るまで忠実 に従われた」(ピリピ2:6〜8)のです。そして、「人間の罪の贖いを代価のために、自分の いのちを死に渡されました」(マタイ20:28)。このことによって、私たちは、「御子によって 贖われ、御子の血による罪の赦しを受けているのです」(コロサイ1:15)。すなわち、私たち の救いのためには、絶対主の御子の命が掛かっているということです。それだけ重味のある 救いです。従って、私たちは、自分の罪を軽く考え、信じれば誰でも当たり前のように救わ れると考えているのは、少なくとも、自分の罪を軽く見て、余力を残した信じ方をしているの であり、キリストの救いを自分勝手に利用しているだけです。それは、絶対主の救いの計画に 反しています。なぜなら、僅かばかりでも自分の力に頼る義を持っているなら、その義を働か せて自分が努力すればよいからです。もし、その努力する力が、少しでも人にあるなら、絶対主 はご自分の御子を犠牲にする必要はなかったでしょう。人間の努力する誠実な行いに任せて おけば良かったのです。しかし、現実は、人が天の御国に入れられるためには、「心の中の妄想 さえ裁きの対象になります」(マタイ5:28)。また、大きな顔して「私は、天の父が完全な ように完全な者となりました」と言えば、その生涯を映像に映し出されます。「もし右の目が 罪を犯させるなら、それをえぐり出しなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ 入れられるより良い」(マタイ5:29)と言われていますので、心の中に恨みを抱いた者は、 心をえぐり出さなければならない裁きの対象とされ、自分の心を切って捨てなければなりま せん。すると、人は誰一人生きて行ける人はいないでしょう。それが現実です。ですから、 絶対主は、アブラハムへの約束通り、ご自分が責任を取って、御子の命と引き替えにして、 人間に救いを与える道を開かれたのです。ただし、御子の救いは、贖いを受け取るだけでは なく、救いを求めた人間が、「100%自分は罪人です。」「自分は絶対主に認めてもらえる 所は、1つもありません。」「むしろ、人を逆恨みし、人が成功すると嫉み、僅かばかり自分 が誉められると、すぐ傲慢になって人を馬鹿にし、人を見下げるような醜悪な人間です。」 「私の心の中には魔物が住んでいます。だから、裁かれて当然の罪人です。」「その醜い心を 持った罪人が、私です」と、絶対主の前に平伏す正直な心を持つ必要があります。それを少し でも、否定しようとする心が働き、「私は、自分ながらに、キリストに喜んでもらおうと 努力して来たつもりです」と、自分の義を立てる 思いがあるなら、その人とキリストとの 関わりはありません。キリストは、「罪人が、罪人である」と悔いている者を救いに来られた からです。あなたは、この砕かれた悔いし心を持っているでしょうか? もし、今尚、自分を 守ろうとする義を抱いているなら、罪人の原点に立ち戻りましょう。 |
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