黙示録に記されたメッセージは、すべてのクリスチャンが「勝利を得る者」となって、
「聖なる都エルサレム」の住民となることです。そのためには、7つの教会に宛てて書かれた
試練を乗り越えて、信仰の勝利者となることです。「勝利を得る者は、これらのものを相続
する。わたしは彼の絶対主となり、彼はわたしの子となる」(黙21:7)と言われ、「これら
のものを相続する」というのは、7つの教会に宛てて書かれた「勝利を得る者」が「聖なる都
エルサレム」の中に在って受け取る報いです。その報いは、7つの教会に宛てた手紙の結論に
1つ1つの具体的な報いが記されています。ですから、クリスチャンが目指す信仰の歩みは、
黙示録12章11節にあるように、「兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証の言葉とによって、
その龍に打ち勝ち、死に至るまでも自分たちの命を惜しまなかった。」という信仰の勝利に
なることです。その生き方は、パウロさんがピリピの聖徒たちに勧めているように、「生きる
にしても、死ぬにしても、私の身によってキリストが崇められることです。私にとって生きる
ことはキリストであり、また死ぬことは益です」(ピリピ1:20〜21)という、証しを
立てることです。黙示録には、「ここに、絶対主の戒めを守り、イエスを 信じ仰ぐ心を持ち
続ける、聖徒の忍耐がある」(黙14:12)とあり、また「今から後、主にあって死ぬ者は
幸いである」(黙14:13)とあります。これは、龍に打ち勝ち、死に至るまでも自分の
命を惜しまなかった「勝利者」の生き方です。すなわち、私たちが自分の命を惜しんだら、
キリストの証しは出来ないということです。まして、キリストの為に生きず、自分の都合
ばかり追求し、あたかも救いが地上の幸いの中にあると思っている人は、聖なる都に望みを
持つことはできないでしょう。このことは、患難時代の中に入った者だけのメッセージでは
なく、今、「平和だ、安全だ」という この時代の中で生きているクリスチャンに対する、
絶対主からのメッセージです。これまでの世界の歴史上、キリストを信じる人々はいつも
激しい迫害によって信仰が試されて来ました。信仰が試されるのは、患難時代に入ったクリス
チャンだけでなく、今も同じ信仰の試しがあり、「あなたは冷たいか熱いかであってほしい…
あなたはなまぬるいので、わたしの口から吐き出そう」(黙3:15〜16)と言われている
のです。クリスチャンの生きる望みは地上にはなく、聖なる都エルサレムで生きる望みです。
ならば、パウロさんのように、「恵みの福音を証しする任務を喜びをもって果たすことが
できるなら、この命は、少しも惜しいとは思いません」(使20:24)という生き方を
表して行きましょう。
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