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2018年 NO.628 |
パウロさんの手紙の主要なテーマは、「律法に対して死んだクリスチャンの生き方」を 示すことです。それは、パウロさんの半生が「律法の義については、落ち度のない者」として 生きることを目差していたのですが、それが不可能であることが分かったからです。そこで、 彼は「律法の行いによっては、誰一人義と認められない」ことを思い知らされました(ガラ テヤ2:16)。確かに、「律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖なるものであって 正しく、良いものです」(ロマ7:12)。しかし、パウロさんはその聖なる律法と戒めを守る ことの出来ない罪人であることを思い知ったのです。なぜなら、「善をしようとする意思は あっても、それをする力がないからです」(ロマ7:18)。このような現実を知った時、彼は 律法を守って義とされると思い込んでいた自分が、逆に律法を守れず、呪われて裁かれて しまう自分だと気づかされ、死を宣告される罪人だと知ったのです。そして彼は、「私は律法 によって、律法に死にました」と告白しました(ガラテヤ2:19)。すなわち、キリストの 前に自分が罪人であると分かった時、律法の定めに従って死が宣告される惨めな自分だと 思い知らされたのです。ところが、キリストは「そんな罪人のために贖いの代価として自分の 命を差し出して下さった」と知りました。そして絶対主は、キリストを信じた者を「キリスト と共に死んだ者」と見なして下さり、また、キリストの甦りの命に預からせて、新たに生きる 者として下さった。すなわち、「私が今、肉体にあって生きているのは、私を愛し、私の ために御自身をささげられた絶対主の御子を信じ仰ぐことによって、生きているのです」 (ガラテヤ2:20)という生き方に変えて下さったのです。すなわち、キリストが「モーセの 律法では義とされることの出来なかったすべての事について、信じる者は誰でも、このイエス によって義とされるのです」(使13:29)という道を開いて下さったのです。ですから、 もうパウロさんは、律法に脅かされる必要がなくなりました。なぜなら、律法は生きている 人間にかせられたものであり、死んだ人間には、律法は追いかけてくることはないからです。 すなわち、この世の法律でも、裁判中に死んだ人間は、「被疑者死亡」となり、不起訴処分と なります。このことは、私たちも、絶対主の前に律法によって訴えられてきましたが、 キリストと共に死んだことにより、被疑者死亡となり、もはや律法で裁かれることがなくなり ました。ですから、もう律法の定めに追い掛けられる必要はなくなりました。すると、肉に あって生きている現実の今は、どのように生きて行けば良いのでしょうか?それは、律法の ノルマから解放され、律法の定めとは無関係に、私たちは義務感からではなく、自分の自由 意志に基づいて、絶対主に在って、「キリストを信じる信仰によって生きる」のです。 それは、平たく言うと、自分の努力で義と認めてもらうために、がんばり続けて行くものでは なく、自分の自由意志でキリストに喜んでもらう生き方を始め出すことなのです。これは、 ノルマではありませんから、たとえ失敗しても、過ちを犯しても「やり直しが利く」生き方 です。だから、これは損得抜きの純粋な生き方であり、律法に対して死んだクリスチャンの 正しい生き方は、「信仰によって生きる」ことに尽きるのです。 |
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