|
|
||||||||||||
2018年 NO.655 |
聖書には、「もし、私たちが、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、 真理は私たちの内にはありません」とあります。また「もし、私たちが罪を犯したことがない と言うなら、それは絶対主を偽り者とすることです」(Tヨハネ1:8、10)とあります。 即ち、私たちは生まれながらに罪の中に死んでいた者であって、御怒りを受けるだけの者 でした。ところが、憐れみ豊かな絶対主は、ご自分の御子に人間の罪の償いをさせ、その御子の 贖いを信じる者には罪の赦しを与えて下さると、約束して下さいました。 しかし、ここで勘違いしてはならないのは、キリストは罪を消すために来て下さったのでは なく、人の贖いのために 来て下さいました。と言うことは、罪の赦しを与えられたクリス チャンであっても、罪がなくなって正しい人間になる訳ではないのです。地上に生きている 間は、依然罪人のままであることは事実です。ですから、信じる前と同じように罪人の性質は 持っていますので、罪を犯してしまいます。 そこで、クリスチャンが罪を犯した時、「もう二度とやりません」と反省し、せめて同じ 罪は二度としないと決意するのですが、しかし、いくら反省しても現実は同じ罪を何度も繰り 返してしまうのです。だから、クリスチャンが、「もう二度としません」と謝り続けるのは、 嘘と欺瞞のなにものでもありません。もし、「二度としません」と言えるとしたら、 罪のない人間にだけに言える言葉です。なぜなら、キリストの償いの死は、私たちの罪を 消すためではなく、罪の贖いのためにして下さったものですから、いくら キリストを信じて 救われた者といえども、この地上にいる間は、「二度と罪を犯しません」とは決して言えない からです。キリストの救いは、人が命を閉じた後に、罪の清算がなされるその時に実現します。 それは審判の時に、『お前の一生涯の罪は、キリストの贖いの故に赦そう』と絶対主は言って 下さるからです。しかし、この地上にいる間は、ただ贖いを受けただけで、生まれながらの 罪人であることは、ひとつも変わっていません。なのに、もし、私たちが「もう罪を犯しま せん。悔い改めて正しく歩みます」と言うなら、絶対主は、「そうしなさい。しかし、お前は 『もう罪を犯しません』と言える人間だから、キリストの償いは必要ないはずだ。だから、 お前とキリストとは何の関わりもない」と言われてしまいます。だから、私たちは、罪を 犯した時、「悔い改めます、もう二度と同じことはしません」とは言ってはいけないのです。 逆に、「私は、罪を犯しました。ただ謝ることしかできません。二度としませんとは到底言え ない罪人です」と告白するしかないのです。しかし、これを言えば、「お前、何を考えている のだ」と怒鳴られ、赦してもらえないと思うでしょう。しかし、罪を犯さずに一生涯本当に 歩めるのでしょうか? あり得ません。だからこんな罪人だからこそ、イエス様が身代わりと なって死んで償いをして下さったのです。 のなら、せめて一つでも二つでも、「自分に出来ない」と諦めていたことも、キリストに 依り頼んでやらせてもらって行くべきではないでしょうか。罪人が正しい人間になることは 出来ませんが、絶対主から志を与えられて、絶対主の御心を一つでも二つでも出来れば幸い です。主は、「その志を与えて、事を行わせて下さる」(ピリピ2:13)と言って下さる のですから。だから、絶対主は、「信仰はこの実践だ」と言われます。「自分には出来ない」 と思って やろうとしない生き方は、キリストの贖いにあぐらをかき、キリストの救いを利用 しているだけです。しかし、「出来ない」と思うことを、キリストに依り頼んでするなら、 それは信仰を持っていることの証しになるのではないでしょうか。絶対主はそう見て下さる のです。ですから、このようにキリストを信じ続けて証しを立てて行った者は、命を閉じた 後にキリストの救いの約束を実現して頂けるでしょう。ピリピ3:21 どうか、残りの生涯を 信仰の実践を通して、信じ続けて来たことを証しして行こうではありませんか。 |
|