2018年7月8日
ことば
『十字架の言には力がある』
第Ⅰコリント1:17~31
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(起)第Ⅰコリント1章18節の御言葉から、「十字架の言には力がある」ということを学び、
「どこまでも全能主のお考えに合わせ、全能主に尽くして行く、その一本道を貫いて行く」ことを学び
たいと思います。
(承)さて、18節を見ますと、「十字架の言は、滅び行く者には愚かであっても、救いにあずかる
私たちには、全能主の力です」とあります。しかし、「十字架の言には力がある」という意味が、
今まではよく分かりませんでした。なぜなら、「いくら十字架の言を語っても、わたしたちの伝道には
力がない」からです。確かに、聖書には「イエス・キリストの十字架によって私たちは救われ、罪が
赦されて永遠の命が与えられる」と書いてありますが、イエス・キリストの十字架の贖いを信じたから
といって、現実の自分自身は何も変わっていません。信じてもなお、私たちは魔物を抱えて生きて
います。この現実を見ると、「どうして十字架の言が全能主の力だと言えるのか。福音には力がある
はずなのに、どうして自分たちには力がないのか」、「自分たちは力不足だ」としか思えないのです。
(転)ところが、最近になって、「救い」というものの理解が明確に明示されたことによって、
「十字架の言には力がある」という意味が分かり始めました。どの部分が明確にされたのかというと、
「救いはこの地上にはない」ということです。私たちは、イエス様を信じたことによって、今、この
地上で、その救いを味わって行くことができるかのように錯覚してしまいがちですが、そうではあり
ません。なぜなら、罪の贖いは、イエス・キリストがして下さったことであり、私たちは、何の償い
もしていないからです。だから、イエス様を信じたからといって、私たちは罪を犯さなくなるわけでは
ありません。また、魔物が消え去ってしまうわけでもありません。生まれながらの罪の体は死ぬまで
持ち続け、罪の体は、命を閉じたときに初めて脱ぎ捨てることができるのです。そして、その後すべて
の人間は全能主の審判の前に出ます。そこで、一生涯罪の体を持って生きてきたことに対して、全能主
がどう審判なさるかが問題です。私たちは、生きている間は未信者と変わらず罪を犯し続けてきた人間
であり、その罪は確かに裁きの対象です。しかし、生きて来た生涯に渡ってイエス・キリストの贖いを
信じ、地上で犯した罪の責任ぐらいは正直に認めて、その報いを受け留めて来た者に対しては、
「キリストの贖いが必要な罪人です」と認めて来たことになり、全能主は、「お前の罪の為には、
イエスの贖いがあるから」と言って、審判のときには、裁きの対象から外して下さるのです。それは
イエス様の贖いがあったからです。そして、救いを得た者にふさわしい、御霊の体を貰い、御国に
入れて下さるのです。なんと感謝なことでしょうか。これが救いなのです。この救いの真理が分かっ
たら、「十字架の言には力がある」という意味が見えてくるのではないでしょうか。私は、救いの
根拠がイエス様の贖いにあり、十字架の言は、救いに預かる私たちには、全能主の力だからです。
(結)このことが分かったら、地上での残りの生涯を、全能主に喜んでもらうために生きて行こう
ではありませんか。それは、全能主のお考えにどこまでも合わせて行くということです。
例えば、女性は結婚するとき、「この人のために生きて行きたい。この人を助けて行きたい」と思っ
て結婚しなければなりません。なぜなら、女性は助け手として造られたからです。だから、どこまでも
結婚した相手のために心を使って生きて行く、その生涯を通して行くことが女性の一本道なのです。
それと同じように、私たちは「全能主のために生きて行きたい」という心で、その生涯を通すのです。
全能主は、私たちを御国に入れるために、ご自分の一人子イエス様を送って下さり、十字架につけら
れました。私たちの為にそこまでして下さったのです。その全能主のお心が分かったら、「この全能主
のために生きて行きたい、尽くして行きたい」と思いませんか。全能主のために生きて行くためには、
全能主のお考えにどこまでも合わせて行こうとする心が必要です。全能主は、そのような者と一緒に
御国で生きて行きたいと思われるはずです。どうか、もう自分のことよりも、「全能主のために
生きて行く」という心を持って、そのためにエネルギーを費やして行きましょう。
そして、どこまでも全能主のお考えに合わせ、全能主に尽くして行く、その一本道を貫いて行こう
ではありませんか。
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