(起)第Ⅰコリント6章19、20節の御言葉から、「肝心なときには御霊さまの声に聞き従い、
自分の罪を認め、責任を取って行く」ということを学びたいと思います。
(承)さて、今お読みした中で、19節には「・・・あなた方は、聖霊の宮であって、もはや自分自身
のものではありません」とあり、20節には「・・・全能主のものであるあなた方の体と霊をもって、
全能主の栄光を現しなさい」とあります。 しかし、「自分自身のものではない」、「全能主のもの
である」と言われても、今の私たちは、それを自覚することが難しい状態にあります。何故かといい
ますと、私たちの内には魔物がおり、一日の内の50%は、未信者と同じように自分自身の肉の思いの
中で生きているからです。一日の内の1%でも御霊さまの声を聞き、御霊さまの影響力を受ける時間が
あれば幸いですが、その1%さえもないまま一日が終わってしまうこともあるのです。
それが今の私たちの現実です。
(転)では、先程お読みした「聖霊の宮です」という御言葉は間違いなのかというと、そうではあり
ません。私たちはキリストと共に死に、キリストと共に甦り、キリストにあって生きる者とされました。
すなわち、全能主のものとされたのです。しかし、それはあくまでもアオリスト形で書かれていること
ですので、「私たちの現在の状況の如何に関わらず、全能主の前にあってはそのように見られている」
ということになります。だから、「確かに私たちの体と霊は全能主のものであるのですが、今現在の
自分は魔物を抱え込んだまま生きている」という二面性があるのです。だから、その二面性の中で、
私たちはどのように生きて行けば良いのかと申しますと、大事なポイントは一点だけです。それは、
罪を指摘されたときに、御霊さまの声に耳を傾けるか、どうかということです。先程も申し上げたよう
に、私たちは一日の内の半分は魔物の声を聞いて生活していますので、それ故に罪を犯してしまいます。
罪を犯せば、当然叱られます。そのときに、「本当にその通りです」と認め、「自分が犯した罪に
対する報いを受けるのは当たり前です」とへり下る心を表すならば、全能主は「それで良し」と言って
下さいます。私たちをその方向へ導き、全能主と結びつけようとして下さるのが御霊さまです。
だから、私たちはその御霊さまの声に聞き従い、自分が犯した罪の責任を取って行くべきです。
ところが、もし御霊さまの声をかき消して、自分の罪を認めたくないような顔つきをしたり、弁解を
したりすると、それは「自分は罪人ではない」ということを表明し、全能主の前に義人ぶることになり
ます。義人ぶる者にはイエス・キリストの贖いは必要ありませんので、それを表した瞬間に、私たちは
全能主との繋がりを失い、イエス様の贖いも失ってしまいます。だから、全能主は、私たちが罪を犯し、
その罪を指摘されたときにどう出るか、その処を度毎にチェックし、見ておられるのです。
(結)私たちの内には魔物がいますので、どうしても罪を犯してしまいます。しかし、反対に、
私たちの内には御霊さまもおられるのです。「御霊は御国を受け継ぐことの保証です」とありますので、
私たちの内に内住される御霊さまを決して消してはいけません。少なくとも、肝心なときには御霊さま
の声に聞き従う心が必要です。その「肝心なとき」というのが、罪を指摘されたり、叱られたりした時
です。そのときに、正直に罪を認める心を表すならば、「お前は罪人であることを自覚しているの
だからそれでいい」と、全能主は言って下さいます。なぜなら、魔物を抱えた100%罪人の私たち
のために、イエス様は100%の贖いをして下さったからです。だから、私たちは自分の罪を認め、
責任を取ることから逃げてはいけません。むしろ、そこで責任を取って行く心を全能主の前に表して
行くべきです。時には、「それを人の前に表せ」と言われることもあります。そのときは恥をかくかも
しれませんが、それはして行かなくてはならないことです。私たちは元々罪人で、メンツを守れる
ような人間ではありません。たとえメンツを潰されても、当然のものですから、自分の罪を認め、
責任を取って行く、この霊的世界に身を置こうではありませんか。
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