教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


                                                               2018年7月22日

自己否定の心を土台として、
        真に、全能主に従う歩み



第Ⅰコリント11:1~16 

(起)第Ⅰコリント11章の御言葉から、「女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの

頭は全能主である」という従属関係は、全能主がお決めになった秩序であることを学び、「
自己否定の

心を土台として、真に、全能主に従う歩み」をもって、主の前に生きていくことを学んで行きたいと

思います。


(承)さて、3節を見ますと、「すべての女の(かしら)は男であり、男の(かしら)はキリストであり、

キリストの(かしら)は全能主である」と記されています。ここに書いてあるとおり、女は男から造られ

たので、女の頭は男です。また、男は創造主であるイエス・キリストによって創られたので、男の

(かしら)はキリストです。そして、キリストの(かしら)は父である全能主です。ここに、それぞれの

従属関係、全能主がお決めになった秩序が見えてきます。それを踏まえて、次の4節を見て行きます

と、「男が祈りをしたり、預言をしたりする時、(あたま)に物を被っていれば、彼の(かしら)を辱める

ことになります」とあります。というのは、「男は、全能主の栄光と形を持っているからです」

(11:7)。だから、「男は(あたま)に物をかぶる義務はありません。」(11:7)。

それは、「男が(あたま)に物を被ると、キリストの栄光を被ってしまうことになり、キリストを辱める

ことになる」ということです。だから、男は(あたま)に物を被る義務はありません。ところが、女の

場合は、「祈りをしたり、預言をしたりする時、頭に被いを着けないなら、自分自身の頭を辱める

ことになります。」というのは、「それ自体が、髪を剃られていること(坊主)と全く同じだから

です」とあります。(5節)すなわち、女は、「自分自身の内に栄光を持っていない」ということ

です。女は、男の(あばら)骨を取って造られましたから、自分自身で栄光を表せるような者ではあり

ません。女はどこまでも男に従属する立場であり、男のために造られたのです。ですから、そのしるし

として、女が全能主の前に出るときには、頭に被いをし、罪を犯した女として、恥を隠して出なけ

ればならないのです。


(転)さて、私たちの教会も、昔は女性が帽子を被っていましたが、ある時期に止めてしまいま

した。それは何故かというと、日本にはそのような習慣がなく、義務感で帽子を被るようになって

しまったからです。すると、全能主がお決めになった秩序を、心に留めずに被いをする事になって

しまいます。本来なら、男と女の秩序を受けとめて、へりくだって従う心を持って被るなら良いこと

ですが、
日本の習慣には逆に、男女平等という西洋の思想が入ってきて、机を並べて学ぶようになり、

この聖書の男女の秩序は無視されていきました。
ですから、「男が女の頭である」と言う教えは、

信じたクリスチャンの中にも、当然違和感のあることでした。ですから、その心を持っていない

のに、形だけでやっても意味がありません。先日、第Ⅰコリント13章の、「山を移すほどの強い

信仰や、全財産を人に施したとしても、また、自分が焼かれるために命を渡しても(殉教しても)、

愛がなければ何の益にもなりません」という御言葉から、「愛とは、自己否定の心の姿勢が土台

となる」ということを学びました。すなわち、
いくら表面的な博愛精神を形で表しても、その心の

土台に自己否定の心がなければ、「何の益にもならない」ということ
です。それは、被り物に

ついても同じことが言えるのです。いくら帽子を被っていても、土台に自己否定の心がなければ

何の意味もありません。本来なら、
自己否定の心を持ち、女としてへりくだって従って行く心を

以ってこそ、帽子を被るところに意味がある
のです。

(結)ですから、今日お読みした御言葉は、「帽子を被っていれば、全能主に従っている」という

ことにはならないことが分かります。逆に言うと、
「帽子を被っていなくても、自己否定の心を持ち、

本当にへりくだって従う心があるなら、全能主は受け入れてくださる」
ということです。すなわち、

全能主は、私たちの外側ではなく、内側の本物の心が見たいのです。その本物の心とは、罪人である

という自分自身の立場を自覚した自己否定の心です。全能主の前に通用する心と言えば、これしか

ありません。今の世の中は男女平等で、「女が男に従属するなんて考えられない」と言われてしまう

ような時代です。ですから、女であろうが、男であろうが、それぞれが自立し、どこまでも自分中心

に生きて行く世界です。しかし、聖書には、私たちを創られたお方の意思が記されています。

それが、
「女の頭は男であり、男の頭はキリストであり、キリストの頭は全能主である」という

従属関係の秩序ある世界です。
その秩序に従って生きて行くのが、信じた者の生き方です。

どうか、自己否定の心を土台として、真に、全能主に従う歩みを始めましょう。


 

 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室