(起)コロサイ2章11節の「キリストの割礼によって、罪の肉の体を脱ぎ捨てる」という御言葉を
学び、「救いの真理を最後の最後まで確信し、キリストを信じ通して行く」ということを学んで
行きたいと思います。
(承)さて、11節を見ますと、「あなた方は、キリストにあって、人手によらない割礼を受け
ました。すなわち、キリストの割礼によって、罪の肉の体を脱ぎ捨てることによってです」とあり
ます。「割礼」とは、旧約時代のイスラエルの民にとっては、「全能主の民とされた契約のしるし」で
した。ですから、私たちにとって「キリストの割礼」というと、「キリストの民とされたことのしるし」
ということになります。そして、その「しるし」とは「御霊」のことです。御霊を通して、私たちは
「罪の肉の体を脱ぎ捨てることができる」ということです。それは、信者、未信者を問わず人は皆、
命を閉じた時に罪の肉の体を脱ぎ捨てます。しかもクリスチャンは、キリストの贖いによって
「キリストの割礼に預かっている者」は、罪の裁きの対象から救われ、罪の体は滅ぼされてなくなり
(ローマ6:6)、救われた霊に相応しい御霊の体を貰って(第1コリント15:44)復活するの
です。そして、御国に入れられます。しかし、キリストの贖いを無視し「キリストの割礼に預かって
いない者」は、生きていた時に犯した全ての罪が、審判の対象として裁かれて、一旦脱ぎ捨てた罪の体
を持って蘇り、燃える火と硫黄のゲヘナに投げ込まれます。このように、罪の肉の体を脱ぎ捨てること
のできる者と、そうでない者の差は、こんなにも大きいのです。
(転)さて、「キリストの割礼」を受けて、キリストの中に在るしるしとして、御霊を受けている
クリスチャンでも、今は、まだ罪の体を脱ぎ捨ててはいません。だから、私たちはこの地上にいる間は、
罪を犯してしまいます。罪を犯す限り、私たちは心が責められ、苦しんで行きます。そして、そこには
平安はありません。しかし、それでもキリストの贖いは事実ですので、その贖いを信じ続ける者は、
救われた罪人である自分を誤魔化さず、罪を犯した自分を棚上げせず、また、逃げださずに「その通り
です」と認め、世にあって罪の責任を取り続けていくなら、全能主はその人を、決して軽んじられ
ません(第一ヨハネ1:9)。この世では、未信者から「お前のような者が、クリスチャンか」と
言われ、ぞんざいに扱われるかもしれません。しかし、全能主は、自分の罪を誤魔化さずに認め続けて
行った者に対して、「お前にはイエスの贖いがあるからな」と言って、最後の罪の清算のときに裁きの
対象から外して下さるのです。これが救いです。また、私たちはこれから患難時代に入って行きますが、
その中で最後までイエス様の贖いを信じ通して、命を閉じて行くなら、命を閉じた瞬間に罪の体は
滅ぼされ、新しい命に相応しくされます。この扱いを一番嫌っているのがルシファーです。
ルシファーはそんな簡単に罪の体を脱ぎ捨てられるような状態にはしてくれません。患難時代では、
あの手この手を使って私たちを苦しめ、信仰から離れさせようとするでしょう。だから、患難時代に
入ったら、私たちは罪の体を脱ぎ捨てるだけでも大変かもしれません。しかし、少し我慢すれば、命を
閉じたその瞬間に罪から解放され、イエス様の贖いのおかげで、罪の体は滅ぼされ、新しい体に復活する
のです。こんな特権は、他のどこにもありません。
(結)この幸いを信じますか。あるいは馬鹿にしますか。信じるか信じないかは、あなた次第です。
それは、私たちが自分で決めることです。しかし、このような救いをないがしろにして、どうして
救われることが出来ましょうか。もしこの救いの道理を否定したら、その人は、全能主が私たちの罪の
贖いとして送って下さったイエス様をないがしろにすることになります。この救いは、決して投げ
捨ててはいけません。なぜなら、「キリストの割礼」に預かっている人は、罪の債務証書が十字架に
釘付けにされているので(コロサイ2:14)、イエス様と同じ復活にあずかることができるのです
(コリント6:14)。すなわち、罪の体を脱ぎ捨て、御霊の体をいただいて、新しい命の中で御国に
導かれて行くのです。ところが、「キリストの割礼」に預かっていない人は、罪の体を脱ぎ捨てる
ことができなかった為、その人たちは、罪の体を持ったままの状態で、その罪の体にふさわしい地獄に
投げ落とされるのです。この事の故に、過去のキリシタンの人々は、どんなに拷問されても死を以って、
キリストを信じ通して行ったのです。このように、私たちの日本では、多くの信仰の証人たちが雲の
ように取り囲んでいるのですから、私たちも、罪の体を脱ぎ捨て、御霊の体を頂いて、天に迎え入れて
頂きましょう。私たちには、この救いの真理がはっきりと教えられているのですから、最後まで信じ
続けて行こうではありませんか。そして、ただへりくだって従って行く、その心をどこまでも表して
行きましょう。
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