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2018年6月24日

御父と御子の交わりの内に留まる

第Ⅰヨハネ2:20~29


(起) 第Ⅰヨハネ2章24節の御言葉から、「御父と御子の交わりの内に留まる」ことを学び、

「たとえ取り返しのつかない罪を犯してしまったとしても、その罪を誤魔化さずに正直に認め、

イエス様の贖いに留まり続ける」ことを学んで行きたいと思います。

(承)さて、24節を見ますと、「初めから聞いたことを、あなた方の内に留まらせなさい。

もし初めから聞いたことを、あなた方の内に留まらせるなら、あなた方も御父と御子の交わりの内に

留まることでしょう」とあります。この「初めから聞いたこと」というのは、「イエス・キリストが

私たちの罪の贖い主であるという福音」です。確かに、自分の罪の贖いをして下さったイエス・キリ

ストを信じ、その福音に留まり続けるなら、私たちは永遠の命を受けます。
しかしながら、「御父と

御子の交わりの内に留まる」と言うことは、私たちにとって、そう簡単なことではありません。

なぜなら、私たちの心の中には魔物が住んでおり、「自分の罪を指摘されたり、怒られたりすること

を嫌がる」という身勝手な思いが働くからです。
私たちは、自分自身のプライドが傷付くことを極度

に嫌い、自分がやった過ちも正直に認めると、全て自分に責任が降りかかってくるので、嘘を付いて

でも逃れようとする思いが働くのです。ですから、正直に誤りを「自分が悪かったのです」と謝る

ことをしようとはしません。こうして、私たちは責任を取らされたくないため、嘘をつき、弁解をし、

卑怯な手段をとってでも、いつも自分を守ってきたのです。
つまり、罪人のためにイエス様が死んで

下さったにもかかわらず、「自分は罪人である」ということを表明してこなかったのです。


しかし、それを表明しないということは、「自分が罪人である」ということを全能主の前に認めて

来なかったことになり、イエス・キリストの贖いが、自分と関わりのないものになってしまうのです。

 なぜなら、イエス・キリストの十字架は、「自分の罪が、どうにもならない事を自覚して、罪人

そのものであることを認めた者に対する贖い」であったからです。なのに、今現在も自分の罪を

正直に認めず、罪の報いを受けることから逃げて来た者は、「御父と御子の交わりの中に留まって

きた」ことにはならないのです。

(転)では、私たちはどうするべきでしょうか。それは、「たとえ取り返しの付かない罪を犯して

しまったとしても、それを全部認めて報いを受けて行くことです。」これは、弱肉強食の競争社会に

いる人間にとっては難しいことでしょう。しかし、それは絶対に今経験しておかなければなりません。

「人からどんなに辱めを受けようが、傷付き敗北しようが、また、切腹の命が下ろうが、自分が

やったことなのだから、
それを全面的に認めて、堕ちるところまで堕ちるべきです。」それは、罪人

として当然受ける報いです。そこまで行ったときに初めて、「そのお前のためにイエスの贖いがあっ

たのだ。だからそれでいい」と、命を閉じた後に、全能主から声が掛かります。
なぜなら、「一生涯

の罪は、裁きの対象であったのが、お前が罪人であることを一生涯認め続けてきたのだから、そこ

には罪人のためにしたイエスの贖いがある。だから、お前の罪は裁きの対象から外されるのだ。」と、

全能主が言われるのです。このように評価されなければ、自分に永遠の命があると思ってはいけま

せん。
「御父と御子との交わりの中に留まる」ということは、そういうことなのです。ですから、

私たちは、「イエス様があそこまでして下さったのは、自分は言い訳できない100%罪人だった

からだ」と、「悔いし砕かれた心」を持つのです。その時、全能主は、「私は、悔いし砕かれた心

を、蔑まない」と言って下さり、その御言葉を自分に適用して下さるのです。と言うことは、「自分

の罪は自分の責任ですから、誤魔化さずに認め続けること」です。
その生涯を通した者に対してのみ、

「最後に罪の裁きが行われる時に、その者を裁きの対象から外して下さる」というキリストの救いが

実現するのです。
そして、それだけではなく、キリストの故に御国に入れられた時に、全能主は

「わたしは、彼らの不義を憐れみ、もはや、彼らの罪と不法を決して思い出すことはしない」

(ヘブル8:12)と言って下さるのです。
全能主は、私たちの命の主権を握っておられるお方で

あり、私たちの罪を裁くお方です。そのお方が、「お前たちの罪と不法を思い出さない」と言って

下さるのですから、そこには、
完全な救いが存在するのです。そして、第Ⅰヨハネ5:1を見ますと、

「誰でも イエスがキリストであると信じる者は、全能主から生まれた者です」とあります。ここに、

「全能主から生れた」という言葉がありますが、私たちは被造物ですから、普通は「全能主から

生れた」とは言われません。人間は、あくまでも創られた者でした。ところが、イエス様の故に

全能主に養子縁組をして頂き(エペソ1:5)、全能主の子とされるのです。そして、イエス様が

私たちの長子となり(ロマ8:29)、私たちも全能主の子(ロマ8:16)として永遠の交わりの

中に入れられるのです。これはすごいことではありませんか。


(結)私たちに与えられている救いとは、こんなにすごいものなのです。それが分かったら、

私たちは正直に自分自身の罪を認める世界に入って行くべきです。そして、天の御国で「まさに
                                ないがし
御父と御子の交わりの中に入れて頂ける」のです。こんなにすごい救いを蔑ろにしてはいけません。

どうか、たとえ取り返しのつかない罪を犯してしまったとしても、その罪を誤魔化さずに正直に

認め、イエス様の贖いに留まり続けて行きましょう。 
 
 
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