(起)ヘブル書を通して、「イエス・キリストによって、私たちの罪の贖いは永遠に完成されている」
ということを学び、「全能主によって贖われたこの命を、全能主の為に使って行くこと」を、学んで
行きたいと思います。
(承)さて、旧約時代に、生け贄の儀式として「年に一度、モーセの子孫の中から立てられた大祭司が、
民と自分の犯した罪の贖いのために、子牛や子羊を生け贄として捧げる」という律法がありました。
その子牛や子羊は、人間の罪の身代わりの代償として、生け贄として献げられたものです。しかし、
それはどこまでいっても仮の定めであって、本物の献げものにはなりませんでした。なぜなら、子牛や
子羊は、罪の世界の生き物で、罪の影響を受けているものであったからです。ところが、もし罪のない
お方の命が、人間の罪の代価として捧げられたなら、それは完全な贖いになります。すると、それまでの
ような儀式をする必要はなくなります。実は、「この完全な贖いをして下さり、全能主の前に完全な
執り成しをしてくださる大祭司が来られる」ということが、ダビデを通して預言されていたのです。
それが、時至って、まさに全能主の御子イエス・キリストを通して実現されました。そのことを、
ユダヤ人に対して事細かく説明しているのが、このヘブル書の内容です。
(転)しかしながら、ユダヤ人はなかなか律法に対するこだわりを捨てきれず、「律法の行いが全てだと
勘違いし、全能主は『これを守れば祝福する』と約束されたのだから、その律法に従うことによって、
自分たちは全能主のもとに行かせて頂くのだ」と考えていました。ところが、この初めの契約、
すなわち律法による契約には、欠けがあったのです。それは、いつまで経っても人間の生け贄は止まず、
人は永遠に罪人で有り続けるということと、生け贄を捧げる大祭司自身も罪人であるということ、
そして、先程も申し上げたように、生け贄として捧げる子牛や子羊も罪の影響を受けているため、
それは完全な贖いにはならないということでした。従って、動物の生け贄では、人間の罪を完全に贖う
ことが出来ず、永遠に全能主の前に立ち返らせることはできませんでした。それは今日の私たちも同じ
です。私たちはユダヤ人ではありませんが、「これをすれば、こうしてあげるよ」と言われると、
たとえ出来そうになくても「やります」と言って、結局ギブ&テイクの律法の世界に解決を求めようと
するのです。しかし、ユダヤ人と同じように、「言うは易く、行いは難し」とあるように、人の約束事は
いつも破られ続けてきました。そこで、全能主はその古い契約を廃止し、新しい契約として、罪のない
全能主の子であるイエスを人間の罪の贖いの代価として、生け贄とされました。それは今から二千年も
前の遠い過去に起こった出来事ですが、イエス様は全世界のすべての人間の贖いの代価として、ご自分の
命を捧げられました。それは、たとえ二千年前の過去の出来事であっても、全能主の前に完全な生け贄
として捧げられたということは事実です。ですから、私たちの罪が贖われたことは確かなことです。
私たちは、この完全な生け贄が捧げられている者として、もし最後までその贖いを信じ続けたなら、人が
命を終えた後にやってくる罪の清算の時に、裁きの対象から外されます。しかも、イエス・キリストは、
私たちの罪の贖いのためにご自分の命を捧げられて、そのまま死んでしまわれたのではなく、復活して
今も生きておられる方です。ですから、私たちの救いのために死んで下さったことを悔い続けなくても
良いのです。むしろ、「こんな罪人を哀れんで下さい」と、生きておられる救い主に、助けを求め続ける
ことさえ出来るのです。そして、「イエス様の贖いの故に自分は救われて、今生かされているのだ」
ということを感謝できるのです。これは何とありがたいことでしょうか。
(結)このことが分かったら、もう自分が罪人であることを隠す必要はありませんし、罪人である自分を
守る必要もありません。自分は、生まれながらに罪人であることを正直に認めることが出来るのです。
また、もしこの地上で罪を犯してしまったなら、それは正直に認めて行きましょう。そして、その罪の
責任を誰の所為にもせず、「100%自分が悪かったのです」と正直に認めていけば良いのです。
それは、普通なら言いたくない言葉ですが、私たちはそれを言うことが出来るのです。なぜなら、イエス
・キリストという完全な生け贄が永遠に捧げられているからです。私たちがそのイエス・キリストの
救いを否定しない限り、私たちの罪の贖いは永遠に有効であり、裁きの対象であった自分は、
その裁きから外されるのです。ですから、どうかこの完成されている救いに立って、真心から全能主に
近づこうではありませんか(ヘブル10:22)。そして、全能主によって贖われたこの命を、全能主の
為に使って行こうではありませんか。これこそが、私たちが今生きていることの意味であり価値です。
私たちにとっては、全能主の前に献身があるのみです。
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