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2018年4月8日


自分の思いを第一にしていた生き方から、
     全能主の御心を第一にして行く生き方へ



黙示録21:1~7



(起)「黙示録21章1~7節の御言葉こそが、聖書の大元の奥義である」ということを学び、

「勝利を得る者」が(21章7節)、「聖なる都エルサレム」に入ることができ、その奥義の幸いに

与るように、全能主が人間をご自分の如くに創った創造の目的であることを学んで、「自分の思いを

第一にしていた生き方から、全能主の御心を第一にして行く生き方」へと、180度変えて行く事を

学んで行きたいと思います。

(承) さて、21:3を見ますと、「見よ。全能主の幕屋が人と共にあり、全能主が人と共に

住み、人は全能主の民となり、全能主自ら人と共にいて・・・」とあり、21:7には、「勝利を得る

者は、これらのものを相続する。わたしは彼の全能主となり、彼はわたしの子となる」とあります。

また、ロマ書8:15には、「あなた方は・・・子の身分を授けて下さる御霊を受けたのです。

この御霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼びます」とあります。今までは、このような

御言葉を読んでも、「自分のような者が全能主の子となり、全能主を『父』と呼ぶことが本当に

出来るのだろうか」と、御言葉を読んでも他人事のようにしか思えませんでした。しかし、黙示録

を通して、「罪人である私たちも、イエス様の御蔭で全能主に近づくことのできる者とされ、
もし

自分の命を惜しまずに、小羊の血と自分たちの証しの言葉とによって、龍に打ち勝ったならば、

『勝利を得る者』として、全能主を『アバ、父よ』と呼ぶ身分とされ、『聖なる都エルサレム』

の中に入れていただける」
という可能性が見えてきました。実は、これこそが聖書が語る奥義の

メッセージであり、全能主が私たちに悟って欲しいと願われている真理なのです。
全能主は、

ご自分の如くに人を造られましたが、それは、最終的に、「人を我が子として受け入れ、共に

交わりを持つ者とするため」でした。
黙示録には、「患難時代で勝利を得た者は、その幸いの中に

入れられる」ということが、結論としてはっきりと書かれているのです(黙示録21章7節)。

(転) では、どのような人生を歩んだ者が、勝利を得る者となるのでしょうか。それは、どこ

までも全能主の意向に従って信仰を全うした者です。たとえそれが自分にとって不利なことでも、

また自分の願い通りでなくても、そこでじっと忍耐し、どこまでも全能主の意向に従って行った者

ならば、全能主は私たちを我が子として受け入れ、聖なる都エルサレムの中に入れて下さるのです。

ところが、自由意志を持っている私たちは、「自分の思い通りに決めたい。」また、「自分の

イメージ通りにやりたい」という気持ちを、当然の権利として生まれながらに持っています。

それが、たとえクリスチャンであっても、その考えの中で生涯を通し、「こうすることが全能主の

御心に違いない」と、自分の勝手な感覚(イメージ)で、主の為に働いて行こうと考えています。

しかし、自分の勝手な考えで事を行っていっても、それは最終的に全能主から、「お前はわたしの

願いを聞いてくれなかった。お前は自分のやりたいことをやって生涯を終えただけだ」と言われて

しまいます。それが、たとえこの地上で、クリスチャンが信仰的な実を残したとしても、それが

全能主の意向と違っていたら、何の意味もありません。それは、どこまでいっても自分の勘で

やった自己満足になってしまいます。ですから、「主よ、主よ」、という者が全能主の国に入れて

貰えるのではなく、「勝利を得た者」となって、初めて「聖なる都」に入れて頂くのです。

だから、この「勝利を得る者」になる道は、感ではなく、はっきりと示された道です。私たちは

主に従う生き方を180度変えていかなければなりません。
すなわち、自分の中にあるビジョン

を実行するのではなく、どこまでも全能主の意向に沿った働きをして行くということです。


それは、「全能主が動かなければ、私たちも動かない。また全能主が動けば、私たちも動く」

ということです。しかし、この仕え方をして行くには忍耐が入ります。なぜなら、自分の都合の

良いように、手っ取り早く動いて結果を導き出すことが出来ないからです。しかも、もし患難時代

に入ったら、何もかもが自分の思い通りにはなりません。早く殉教したいと思っても、逆に死が

逃げて行くかもしれません。そのときには、全能主が「良し」と言われるまで、私たちは忍耐しな

ければならないのです。まさに、「聖徒の忍耐ここにあり」と書いてあるとおりです。

私たちは、その「聖徒の忍耐」というものを、今の内に習得しなければなりません。
それが、

自分中心の生き方から、全能主中心の生き方に変えるということです
。「勝利を得る者」として

「聖なる都」に入れて頂く道は、この道しかありません。

(結) どうか、この真理にはっきりと立って下さい。私たちは、自分の中から出てくる思いや

発想やイメージによって全能主に仕えて行くのではありません。「勝利を得る者」とは、自分の

命を惜しまず、信仰を全うする者です。ということは、もう「自分、自分」ではないということ

です。私たちは、御霊様を通して全能主の意向を聞き、それをその通りやらせて頂くのです。

もし、御霊さまからの解き明かしがなければ、解き明かしがあるまで待たなければなりません。

待てないために、自分の考えで手っ取り早くやってしまうのは、駄目です。どうか、自分の考え、

自分の思いを第一にして生きて来た生き方から、全能主の意向を第一にして生きて行く生き方へ

と180度変えて、「勝利を得る者として聖なる都」に入れて頂く者となろうではありませんか。

 
         
 
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