(起) マルコの福音書4章21節から、ランプの譬えを通して、「御言葉は、道理に基づく真理を
明らかにするものである」ということを学び、「開かれた心でその道理を受け入れ」、私たちの
信仰を確かなものとして行くことを学んで行きたいと思います。
(承)さて、ここでは、「御言葉」を「ランプ」に譬えて語られています。「ランプは、暗い所を
明るく照らすためのもの」ですが、同じように、「御言葉も、すべてのことを明らかに示していく
もの」という意味です。聖書の御言葉は、暗い部分に光を照らし、物事の道理を明確にし、私たちに
真理を教えてくれます。ですから、私たちは語られる御言葉を素直に聞き入れ、そのまま受け入れて
行くべきです。しかも、その聞き方が素直であればあるほど、多くのことを悟ることが出来ます。
24節の、「聞く事柄に注意しなさい。あなた方の量るその量りで、自分にも量り返され、その上に
なお増し加えられます」という御言葉は、私たちが全能主に心を開けば開いた分だけ、その量に
従って、全能主は多くの真理を教えて下さるという意味です。その真理は、天の道理に基づく真理
ですから、私たちが心を開き、へりくだった心を持って初めて理解できるものです。また、私たちが
その理解の中で信頼して歩み出せば、必ず成長して行くのです。ですから、私たちにとって「聞く
耳を持つ」ということはとても大切なことです。ここに記されている「聞く耳のある者」とは、天の
道理で語られた御言葉を、開かれた心で聞き、悟る者のことです。私たちは、いつも開かれた心で
御言葉を読み、またメッセージを聞いて、天の道理を受け入れて、信仰の実践をして行くのです。
(転)しかしながら、私たちは、御言葉を読み、メッセージを聞いて、その道理が分かったと
しても、「自分の心がついて行かないからできない」と言って、その真理の中になかなか
飛び込もうとしません。それは、その道理を自分自身できちんと確かめていないからです。
もし、自分でその道理を確かめ、きちんと納得して行くなら、その理解が信仰に結びついて
行きます。そして、自分の信仰が、感情に基づかなくなります。すると、「いくら心がついて
行かなくても、また感情で嫌っても、これは道理に基づいていることだから、そのまま受け入れて
行こう」と思えるようになるのです。この作業をして行くと、私たちの判断の仕方が変わって行き、
地上の道理や、肉的なものの考え方から離れて行くことができるのです。すると、自分の感情に
捕われて不信仰になったり、「できるかな」と思って不安を抱えることもなくなります。もし、
判断に自信が持てなければ、御霊さまに聞いて、どちらが道理に適っているかを確かめれば良いの
です。確かめて、御霊さまの言われることの方が道理に適っているということがはっきりすれば、
その道理は感情を超え、感情は退けられていきます。すると、道理に堅く立ち、信じてそれを実行
することができるようになるのです。また、聖書を読んでいる時に、自分の感情が働いて「これって
おかしくない?」と疑問を持つこともあります。そこで、きちんと道理を確認することをせず、
感情的な疑問を持ったままで終わってしまうなら、御言葉を信じて実行するクリスチャンには
なれません。それでは、私たちの信仰はいつまでたっても成長出来ないでしょう。だから、疑問が
出てきたら、道理をはっきり理解するまで調べて確認することが必要なのです。或いは、それが
難しければ、初めに申し上げたように、道理に基づいて語られているメッセージをそのまま聞いて
受け入れて行く信仰を持つことです。それをして行くことによって、私たちは信じる信仰が増して
いき、堂々と歩み始めることができます。
(結)どうか、私たちの信仰の意識を、道理に元づく信仰に変えて行きましょう。私たちは、
感情的な聖書の読み方、感情的なメッセージの聞き方をしてはいけません。感情というものは、
その時々でコロコロ変わりますから、非常に不確かなもので、また、信仰の安定を欠きます。
ですから、私たちはきちんと道理を確認し、そこで納得し、信じてその道を歩んで行く信仰へと
改めて行かなければなりません。また、天の道理に基づいて語られる御言葉をそのまま聞いて素直に
受け入れ、開かれた心を持って聞く習慣を身に付けていくべきです。どうか、感情に基づく信仰
ではなく、道理に基づく確かな信仰へと成長していきましょう。
|