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2018年4月1日


全能主を自分の主人として行く生き方へ

ヨハネの黙示録15:1~4

(起)  黙示録15章2節から、「ガラスの海の(そば)に、獣とその像とその印、またその名の数字

とに打ち勝った人々が全能主の
立琴を手にして立っているのを見た」というこの人々が、私たちの将

来の姿であるために、
自分を主人にして生きていた生き方から、全能主を自分の主人にして行く生き方

へと意識を変え、「龍に打ち勝ち、勝利を得た者」として、「聖なる都エルサレム」に入れて頂くこと

を学んで行きたい
と思います。

(承) 黙示録12:11節を見ていきますと、「兄弟たちは、小羊の血と、彼らの証の言葉とによっ

て、その龍に打ち勝ち、死に至るまでも自分たちの
命を惜しまなかった」とあります。

そして、この15:2では、「ガラスの海の側に、獣とその像とそのしるし、また、その名の数字と

に打ち勝った人々が、全能主の立琴を手にして立っているのを見た」とありますが、この両者は同じ

人々です。これは、また22章4節に書かれている全能主のしもべたちのことで、全能主と小羊が

おられる聖なる都エルサレムの中にいる人々のことです。この聖なる都の中に入る人たちについては、

黙示録2~3章に記されている七つの教会の「勝利を得る者」たちのことでもあります。それらの

人々は、みな
聖なる都の中に入れられた小羊の友人です。ということは、七つの教会への手紙を通して

私たちに語られている黙示録のメッセージとは、
「勝利を得る者となって、新しい天と新しい地に

入る者になりなさい」
ということなのです。と言うことは、勝利を得る聖徒たちとは、患難時代を

通って行くことが大前提
です。しかし、勝手に教会時代と患難時代を分け、患難時代は、教会時代が

終った後なので、クリスチャンは患難時代を通らないというディスペンセーショナリズムの考えに

立ち、クリスチャンは患難時代を通らないと思っています。しかし、この神学は、
人間の思考に

よって勝手に作り上げられたもので、聖書に書かれた教理ではありません。


このディスペンセーションの解釈の主唱者の一人が、スコットランド教会の長老派の牧師エドワード・

アービング(1792~1834年)であり、それをブレザレンのジョン・N・ダービーが推進者と

なり、アメリカではスコフィールドの注解付聖書によって普及され、保守派の教育機関である

ムーディー聖書学院、ダラス神学校、グレイス神学校などがこの見解に立って、伝道者によって

広めたものです。しかし、教会の歴史の最初の3世紀間は、クリスチャンが患難時代を通って、新天

新地に入るというのは、普通に支持されていたことです。さて、患難を通って行った勝利を得た者に

対して、同時に、もう一つ見えてくることがあります。それは、
勝利を得る者となって聖なる都に

入った者たちは、額に全能主の名が記されている
というこです(22:4)。

 ですから、9章のいなごの害を受けることはないということです(額に全能主の印がない人間だけが

いなごの害を受ける)。実は、額に全能主の印が押されているのは、7章の「イスラエルの十四万

四千人の人たちのことだ」と、短絡的に考えてしまいますが、イスラエルの十四万四千人の人々だけ

が全能主の印が押されるのではありません。ですから、勝利を得たクリスチャンは、いなごの害を

受けることはありません。彼らは、「勝利を得た聖徒」(21:7)として、額に全能主の印が

押され、命の水の川の辺にいます。ですから、そのときに、明確な信者であれば、額に全能主の印が

押されていますので、いなごの害を受けることはありません。しかし、もしグレーな信者である

ならば、勝利を得た者と見なされませんから、いなごの害を受ける可能性があります。

(転) では、明確な信者とはどういう信者なのでしょうか。それは、
「自分は生まれながらの罪人

の故に、本来なら裁かれて、ルシファーのいるゲヘナの中に投げ込まれてしまうような者だったの

ですが、イエス様の贖いの御陰で罪人である自分も救われた」
ということをはっきりと自覚し、

「死に至るまでも命を惜しまずに龍に打ち勝った」という信者のことを、「明確な信者」と言います。

信仰によって永遠の命に希望を置ける人は、地上のことはもうどうでも良くなります。すると、自分

の命を惜しまず、全能主に委ねることが出来ます。なぜなら、「それ故に、天とその中に住む者たち

よ、大いに喜び祝え」とあるからです。そして、全能主の御心と分かれば、問答無用で従って行き

ます。全能主が「こうしなさい」と言われたら、たとえ命が取られることがあっても、「分かりま

した」と言うだけです。これが、全能主と私たちの正しい関係です。元々、私たちの命は自分のもの

ではなく、全能主に与えられたものです。人間の体の仕組みを見ていきますと、それは、単なる臓器

の集まりではなく、それぞれの臓器がメッセージのやり取りをし、生きていくための素晴らしい調整

が自動的に行なわれ、生命の維持がなされているのです。そこには実に素晴らしい設計があり、

非常に細かな調整(ファインチューニング)がなされています。このような命が偶然に存在する訳が

ありません。これは、まさに英知を持った方によらなければ、人間のいのちの仕組みはできあがり

ません。だから、私たち人間は、全能主の英知の故に生かされているということです。

ということは、この体、この命は、自分が作り上げたものではなく、全能主が創った命であることが

分かりますので、この命は元々全能主のものですから、私たちは、「自分はこう思うから」、

「こうしたいから」と言って、自分の主権を行使出来ないはずです。確かに、私たちには自由意思が

与えられていますが、その自由意志は、創り主である全能主に従う心を現すためにあるのです。

ですから、全能主の言われたことを、人間は素直に信じて従っていくべきです。このように心を切り

替えて行く時に、初めて全能主に従い「勝利を得る者として命を惜しまなかった」信者として、

地上の命を全うできるでしょう。しかし、この命が自分のものだと思うなら、命を惜しむ者になって

しまうのです。


(結) そこで、患難時代に入ってから心を改めるのではなく、今する必要があります。
私たちの命

は、元々全能主のものですから、全能主に信頼し続け、この命を惜しまずに666に差し出すなら、

永遠の命まで失うことはありません。
どうか、この道理に立ちましょう。そして、全能主の考えに

無条件で従い、「勝利を得る者」として、龍に打ち勝ち、「死に至るまで自分たちの命を惜しまな

かった」という生涯を全うしよう
ではありませんか。これを全うするなら、最初にお読みした

15:2の場所で、全能主を賛美する者として、ガラスの海の(そば)に立つのです。

どうか、
勝利を得た聖徒として聖なる都を目指し、信仰を全うしましょう。 

 
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