(起)第Ⅱコリント5章の御言葉から、「人間的な損得から離れ、一途にイエス様のために生きて
行くことがクリスチャンの信仰だ」ということを学び、「今こそ、損得勘定を捨て、全能主に
信頼し、全能主にあって生きて行く信仰の歩みを始め出す」ことを学びたいと思います。
(承)さて、16節を見ますと、「かつては、キリストを人間的な考えで知っていたとしても、
今はもう、そのような知り方はしません」とありますが、「キリストを人間的な考えで知って
いた」とは、どういう意味でしょうか。それは、「キリストの救いが、御利益主義ではない」
と言うことです。私たちは、キリストの救いを、「自分たちの罪を赦して下さり、私たちが
困って祈るときには、必ず答えてくださる方」として都合良く信じてきました。また、「苦しい
時には、当然のように助け船を出して下さるもの」として期待し、無意識の中で御利益宗教の
ように考えて来ました。ところが、キリストを信じる信仰とは、そのような御利益宗教では
ないのです。15節を見ると、「キリストがすべての人に代って死んだのは、生きている
人々が、二度と自分たちのために生きるのではなく、彼らのために死んで甦らされたお方の
ために生きていくためです」と、はっきりと記されています。すなわち、キリストを信じる
信仰とは、この地上で幸いを得るとか、豊かにされるというものではありません。なぜかと
言いますと、14節にあるように、クリスチャンはイエス様に あって死んだからです。死んだ
人間が、この地上で幸いを味わうことはできません。また、自分が生きることもありません。
すなわち、死んだ者は、死んで甦らされた方、すなわち、イエス・キリストのために生きるの
です。言い換えるならば、地上的な損得から離れ、一途に天にいるイエス様のために生きて
いくのがクリスチャンです。なぜなら、私たちは、キリストによって、地獄ではなく、天の御国
で生きる者とされ、天の国籍を頂いたからです。これがキリストの救いだからです。
(転)ところが、現実は、ほとんどのクリスチャンが、そのような生き方をしていません。
なぜかと言いますと、地上で生きている人間は、いつも地上的な損得で生きて来たからです。
だから、自分にメリットのあることは積極的にしますが、できないと思うことや、損をすること
には、心を動かしません。日常の判断は、自分の頭に語りかける魔物の声を聞いて、頭で損得を
考えて選択します。しかし、クリスチャンになると御霊の内住が起こりますから、頭に語り
かける魔物の声と同時に、心に語りかける御霊の声も聞いて判断します。しかし、クリスチャン
でも、ほとんどの人は心に語りかけられる御霊の声は無視し、生まれながらに聞いてきた
習慣で、自分にとって損か得かで判断し、都合よく頭で計算した声だけを聞いているのです。
そのような損得勘定を持ち続けていたら、私たちの信仰はいずれ崩壊します。ですから、
今こそ、「肉の損得勘定から離れ、全能主にあって考え、生きて行く」とはっきり定めなければ
なりません。その定めは、人から強制されてするものではなく、自分の自由意思でするもの
です。なぜなら、クリスチャンは、キリストと共に死んだことによって、律法から解放された
からです。(ローマ7:6)律法は、人に対して強制的に求めます。しかし、クリスチャンは、
イエス様によって律法から解放され、全能主を信じ仰ぐことによって生きる者とされました
(ガラテヤ2:20)。だから、クリスチャンは、律法によってやらされるのではなく、自分の
自由意思で全能主に信頼する道を選択し、歩み出すのです。その信仰の道を全うした人が、
ジョージ・ミュラーさんです。ミュラーさんは、地上的な考えを捨て、「全面的に全能主に
聞いて、全能主に信頼してやって頂く」という選択を最後まで貫いて行きました。私たちも、
ミュラーさんのように全能主に信頼して生きていくことを願うなら、損得勘定から離れて行動
していくべきです。損得勘定を抱え込んだままこの地上を歩んだ人は、たとえ「イエス様を
信じています」と言っても、天に繋がるとは限りません。天の御国に引き上げられるか、永遠の
地獄に投げ込まれるかは、「私たちが全能主を信頼する道に懸けて行ったかどうか」という
信仰を表したかどうかにかかっています。なぜなら、自分の損得勘定で決めてきた人は、
全能主を信じたのではなく、自分を信じてきたことになりますから。
(結)どうか、今こそ、損得勘定を捨て、全能主に信頼する歩みを始めましょう。この決断は、
先に延ばすものではありません。「祈って、御言葉を読んで、心が燃えてきたら始める」と
言うものなら、それはどこまでも損得です。全能主は、そんな損得を考えた疑い深い者に目を
留められません。なぜなら、信仰の決断はたとえ損をしても、全能主に従うことだからです。
また、律法によって強制的にやらされたものは、長続きしません。信じる心によって、自分の
自由意思によって決めた決断こそが、御国に繋がります。ですから、後は、損得勘定を捨てて、
全能主に信頼し、全能主にあって生きて行く信仰の歩みを始め出そうではありませんか。
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