(起)ヤコブの手紙2章の信仰の行いを通して、全能主に信頼して行く世界に飛び込み、「全能主を
信じていることの具体的な証しをする」ことについて、学んで行きたいと思います。
(承)さて、17節を見ますと、「信仰も行いを伴わなければ、それだけでは死んだものです」と
あります。これは、いくら口先で「イエス様を信じています」と言って教会生活を続けても、そこに
信じている信仰の行いがなければ、それは信じていることにはならない、ということです。
ですから、私たちが「イエス様を信じています」と言って教会生活を送り、そして命を閉じたら、
天に上げられるのかというと、決してそうではありません。もし「信じているから、全能主を礼拝
している」と言うのなら、「全能主を信じているということの具体的な証し」を日々の生活の中で
現して行かなければなりません。その証がないのに、「自分は信じているから御国にあげられる」と
考えても、それは人間の勝手な御利益信仰にすぎません。そのような信仰は、礼拝が終わり、一歩
教会から離れたら、「自分の人生は自分のものだから、自分の好きなようにやる」という生き方に
なってしまいます。そのようでは、その人の信じる信仰は死んだものです。
(転)では、「全能主を信じているということの具体的な証し」とは、どのようなものでしょうか。
それは、アブラハムの例を通して学ぶことができます。創世記22章に詳しく出てきますが、
ある日、全能主はアブラハムを試みて、「あなたの愛する一人子イサクを、全焼の生け贄として
ささげなさい」と言われました。全能主は、「彼が本当にわたしを信じて従ってくるのかどうか」を
見たかったのです。ところが、イサクは、アブラハムが100歳になり、サラも90歳になった
時に、突然与えられた子供でした。しかも、「アブラハムから直接生まれ出て来る子どもが、彼の
世継ぎとなり祝福を受け継ぐ」と言われ、その祝福の流れが、代々受け継がれて行くという、
全能主の約束がありました。それにも関わらず、全能主ご自身が、その約束を今反故にしようとして
おられるのです。しかし、アブラハムは言われたとおり、イサクを連れて、全能主が示された山に
出掛けて行きました。そして、ついに全能主の示された場所で、その子を祭壇の上に乗せ、刃物を
取りました。すると、その時ヤハウェの御使いから声が掛かり、「あなたの手を少年にかけては
ならない。あなたは、一人子さえ、わたしのために惜しまなかった。それで、今わたしは、あなたが
全能主を畏れる者であることを知った」と言われたのです。最後の最後まで、「ここまでのことを
彼が本気でやろうとした」ということを通して、アブラハムは、全能主に信仰の義人と認められたの
です。彼の地上での生涯を見て行くと、決してきよく正しい生涯を送った人だとは、到底言えるもの
ではありません。しかし、良き行いには限界があっても、ここぞという時の信仰の行いに於いては、
彼は、「全能主を信頼し、そこに全てを懸けた」信仰の人だ、という証しを残した人でした。
これが、「全能主を信じている者の具体的な証し」であり、私たちもその具体的な証しを現して
行かなければなりません。全能主は、「本当に信じる心を持ったクリスチャンなのか?もし本当に
信じていると言うのなら、信じた者として、わたしに本気で仕えようとする行いが、その信仰の中に
現されているか」見ておられます。そして、その証を立てるかどうかを私たちを試されます。
そこで、信じている者の行いを現さなければ、「本当にお前が信じていたのかどうか、わたしは
知らない」と言われ、「『主よ、主よ』という者が御国に入るわけではない」と、言われます。
(結)このことが分かったら、私たちも今、アブラハムのように、「主を本気で信じ、本気で主に
懸けて行く」世界に飛び込んでいくべきです。すなわち、「どこまでも全能主の御心に自分の心を
寄せ、それを自分の生きる道として歩んで行く」ということです。全能主は、私たちが地上で立派な
人間になることを求めておられるのではありません。 私たちはこの地上にあって、完璧に損得抜き
で生きて行くということはできません。なぜなら、天に行くまで肉の罪は取り去られないからです。
全能主は、それをちゃんと分かった上で、私たちを見て下さっているのです。ならば、少なくとも
信仰だけは妥協せずに現して行こうではありませんか。たとえ家が取り去られることがあっても、
あるいは、子どもの命をささげなければならないことがあっても、それが全能主から出ていること
なら、従いましょう。 初めは、不安でたまらないかもしれません。信頼してやったからといって、
すぐに良い結果が現れるとも限りません。しかし、それにもめげずに続けて行けば、「アブラハムの
ように、助けられるんだ」という証を見ていけるのです。だから、私たちは全能主から声が
かかったら、全能主にお任せして、地上の御利益を考えずに信頼していく信仰の道を選択して行きま
しょう。どうか、思い切って、全能主を信じて行く世界に飛び込み、「全能主を信じているという
ことの具体的な証し」を貫いていきましょう。
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