(起)第Ⅰペテロ5章とロマ書8章の御言葉から、「悪魔との戦いとは、頭で考えた肉の判断を
やめて、御霊の判断をして行くことである」ということを学び、その生き方を具体的に始め出して
行くことを学びたいと思います。
(承)さて、第Ⅰペテロ5章8節を見ますと、「あなた方の敵である悪魔が、ほえたける獅子の
ように、食い尽くすべきものを求めて歩き回っています」とあります。この悪魔は、私たちの目には
見えませんが、今現実に私たちを取り囲み、隙あらば、私たちを食い尽くそうとしているのです。
私たちには、この悪魔の姿が見えませんから、普段何も意識せずに生活していますが、悪魔には
私たちが見えているのです。だから、私たちはその悪魔の攻撃を防御し、戦って行かなければ
なりません。9節にありますように、私たちは、「主を仰ぐ心に堅く立って戦いなさい」と進められ
ています。信仰とは、「この悪魔に立ち向かいなさい」という戦いをしてこそのものです。ただ
「主を信じています」と言うだけでは、信仰があるとは言えません。信仰とは、必ず御言葉の勧めに
従って行動が伴うのです。
(転)では、私たちにとって、悪魔との戦いとは、具体的にどういうものでしょうか。それは、
地上で生きていく中で、頭で考えた肉の判断で生きていくのではなく、心で聞いた御霊の判断で
生きていくことです。なぜなら、悪魔は私たちの肉の心に働くからです。ロマ8:5を見ますと、
「肉の性質に従う者は、肉的なことに心を向け、御霊に従う者は、御霊のことに心を向けるから
です」とありますが、「肉の性質」とは一体何でしょうか。それは、クリスチャンであっても
私たちが生まれた時から持っている魔物の心です。私たちの判断は、無意識のうちに、この魔物の
声を聞いて自分の損得に従って行動しています。その証拠に、いつも自分の頭で都合良く考え、
行動して来ました。しかし、それは全能主に敵対する方向にしか向かいません。7節に、「肉的な
思いは全能主に敵対する」とある通りです。ところがクリスチャンの心の中には、信仰によって
御霊の内住があり、御霊の語りかけが心に起こります。ですから、私たちは、クリスチャンになって
からも、自分の声は生まれながらの自分の声だと思って生きてきましたが、実は御霊の声と生まれ
ながらの肉の声、すなわち魔物の声の二つの声があったのです。それを、正しく理解せずに、なお
続けて行くならば、私たちは悪魔に遣られっぱなしになってしまいます。ですから、ふと「どう
すればいいかな」と迷ったときは、頭で考えるのではなく、心に語りかける御霊の声も聞くべき
です。そして、御霊の声を聞いたら、その声に従って行動を起こすのです。私たちの内には、肉の
思いもありますが、御霊の思いもあるからです。クリスチャンは普段、この二つの声を聞き、
自分にとって都合の良い声に従っています。だから、私たちは、そんな盲目的なやり方をやめ、
魔物の声と御霊の語られる声を聞いて、どちらの声に従うかを自分の都合で決めるのではなく、
「どちらが全能主の御心に適った声なのか」をよく考えて行動するように、自分の生き方を変えて
行くべきです。これを始めるには勇気が必要です。なぜなら、御霊の声に従って行動を起こす
ことは、自分にとって都合の良いことばかりではないからです。むしろ、昔ながらの自分にとっては
嫌な選択になることがあるからです。また、「信仰によって全能主に信頼してやった」という経験が
なく、イメージが湧いて来ない人もいます。だから、ついつい、生まれながらに培ってきた肉の
判断で行動をしてしまうのです。しかし、それをやってしまうと、「全能主を信じている」と言い
ながら、やっていることは未信者と同じになり、それは本当の意味で信仰者とは言えない生き方を
しているのです。
(結)こういうわけですから、私たちは、今までやってきた肉の判断をやめて、御霊による霊的な
判断をして行くべきです。それを具体的に始めて行くことが、悪魔に立ち向かうということです。
ただ頭で「悪魔に立ち向かって行こう」と思っているだけではなくて、実際にこれを始めなれば
なりません。その実践があって初めて、私たちは前に進むことができるのです。すると「全能主が、
私たちのふさわしい時に、高くして下さる」と言われます(第Ⅰペテロ5:6)。今までは、
「私たちが高くされるなんてことはないだろう」と考えていました。しかし、もしバイブルランドが
出来上がり、ノアの箱舟ミュージアムまで造り上げられて行ったら、すごいことです。だから、もし
私たちがそれを実現することができたら、私たちは全能主によって、高く上げられるのです。
これは、私たちの全能主にある霊的な志です。ですから、私たちはいつも御霊の声を聞き、
御霊による霊的な判断をして行く生き方を、具体的に始め出して行きましょう。
|