2018年11月25日
『全能主を第一とする信仰の実践』
使徒の働き20:17~38
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(起) 使徒の働き20章23、24節の御言葉から、「私たちが走るべき行程を走り尽くし、全能主の
恵みの福音を証しする任務を果たし終えるには、自分自身を徹底的に否定し、どこまでも全能主を
第一にする実践を始め出す」ということを学んで行きたいと思います。
(承)さて、この箇所は、パウロがもう二度とエペソには来ることが出来ないと、自分の死を自覚
したときに、エペソの教会の長老たちを呼んで、最後の勧めをしたということです。
この中で、29~32節は、私たちにとっても非常にリアルな内容の御言葉です。というのは、牧師が
命を閉じたときには、教会員が患難時代に突入し、それぞれが自分の命を閉じる時がやってきます。
その時に「私たちが、走るべき行程を走り終える」という心構えのメッセージが、その内容だから
です。また、「福音を証しする任務を、果たし終える」ということは、患難時代に入る前の、今の
この時代にすることです。患難時代に入ってしまったら、福音を証しできる余裕はありません。
だからこそ、患難時代に入るまでのこの時代に、喜びを持ってこの任務を果たし終えたいと思うの
です。そのためには、「自分の命はこの為に懸けて行く」というぐらいの気概が必要です。
パウロは、「主イエスから受けた全能主の恵みの福音を証しする任務を、喜びをもって果たし終える
ことができるなら、この命は少しも惜しいとは思いません」と言い切りました。ですから、私たちも、
「全能主の恵みの福音を証しすることができるなら、たとえこの命を失っても惜しいとは思わない」
と言える位の気構えを持って大胆な証をしていくのです。これは、本当にクリスチャン冥利に尽きる
生き方です。それは、私たちが実に平凡な人間であっても、自分の命を懸けれる程の仕事ができる
のですから、これは、私たちの特権だと思わなければなりません。
(転)しかし、私たちにとって大きな問題があります。それは、今この時に、「信仰の実践が
行われていない」ということです。先程も申し上げたように、私たちは、世の終わりの集大成のために
召されているのですから、その召しに応えて行かなければなりません。そのためには、信仰の行動を
大胆にしていくことです。その行動を表さなければ、全能主は、やる気があるのか、ないのか分から
ないような者たちを使うことはできません。私たちは、これまで色々なことを学んで来ましたが、
学んだことを、即その通り実践しなければ意味がありません。これこそ、私たちの大切な問題です。
だから、今こそ「信仰は実践ありき。聖書の真理は自律の否定」という言葉を、教会のスローガン
として、打ち出していきたいと思います。この「自律の否定」とは、「どこまでも自分自身を徹底的に
否定し、十字架を負っていくことです」(マタイ16:24)。すなわち、「自律」とは、私たちが、
自分の事だけを考え、自分の都合で生きて行こうとしていることを意味しています。この考え方が、
どこから始まったのかと申しますと、13世紀のヒューマニズムからです。「人間の知性は堕落して
いない」と言ったトマス・アクナスの考えに立って、人々は、全能主を宇宙の外に閉め出し、宇宙の
閉じられた系の中で「人間自身の知性に依り頼み、時間さえあればすべての問題を解決できる」と
考えて、人間が全能主から離れ自律したのです。このヒューマニズムの影響は今日にも及び、学校や
家庭でも、当たり前のようにしてこの考えの中で教育されてきました。しかし、私たちは、教会に
来て聖書を読み、全能主の存在を知り、「今まで教えられてきた人間の自律は、間違っていた」
ということを知ったのです。そして、私たちは命の出所を知った時、すなわち全能主の存在が
はっきりと分かった時、「全能主がすべてだ」という生き方に変えられていかなければなりません
でした。それは「全能主の国と全能主の義をまず第一」とし、どこまでも「全能主の考えに合わせて
行く」という生き方です。しかし、生まれながらのヒューマニズムの考えによって教育されてきたため、
信仰を持ってからでも、「自律の精神」が抜けきらず、その心を持ったままで信じ続けているのが、
今日のクリスチャンの現実です。だから、今こそ全能主を私たちの主権者として認めていく生き方に、
はっきりと変えて行くべきです。そこには、信仰の実践をはっきり現して行くことです。具体的には、
全能主から志が与えられたら、臆せずに、主に頼って行動を取ることです。主は、その行いを助けて
下さいますので、その時こそ、信じる者に働く全能の力が、如何に偉大であるかを味わっていく時です。
だから、全能主が見られるのは、私たちの信じる実践です。その信仰の実践を通して、私たちは、
全能主から自律した生き方を完全に否定して行くのです。
(結)私たちは、生まれながらに罪人であり、その事実は変わりません。しかし、罪の贖いをして
下さったイエス様がいらっしゃいますので、私たちはそのイエス様に自分の生涯を懸けて行けるのです。
しかも、私たちは全能主から、命を懸けていける仕事を託されているのですから、どこまでも全能主を
第一にして生きて行くのです。私たちは、「自分にできるか、できないか」ではなく、やるのです。
どうか、自分自身の考えを徹底的に否定し、どこまでも全能主を第一にして行くことの実践を始め
出そうではありませんか。
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