2018年12月9日
『自分の知性に頼ろうとする傲慢を砕く』
エペソ人への手紙1:3~14 他
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(起) エペソ1章4節とピリピ3章11、12節の御言葉から、「全能主に繋がるのは、自分の
知性に頼る傲慢を砕き、自我を砕いた者だけである」ということを学びたいと思います。
(承)さて、エペソ1:4を見ますと、「全能主は御前に聖く、傷のない者となるようにと、世界の
基が据えられる前から、キリストにあって私たちを選び取って下さった」とあります。「世界の基が
据えられる前から、私たちを選び取って下さった」ということは、「この地球が造られる前から、
全能主は私たちを選び取って下さっていた」ということになります。
これは、私たちにとって実に驚くべきことです。しかし、ピリピ3:11~12を見ますと、
「私は何とかして死者の復活の状態に達したいのです。私がすでにそれを得たとか、すでに完全な者
になっているとか言うのではなく、何とかして獲得しようと懸命に努めています」とも書いてあり
ます。すなわち、このピリピ書には、先程お読みしたエペソ書の御言葉とは反対に、「これから先は
どうなるか分からない」と書いてあるのです。ということは、ここで分かることは、「キリスト・
イエスにあって聖く、傷のない者とされる」という約束は確かに間違いのないものですが、その反面、
私たち自身の意思の働かせ方によっては、その約束から離れてしまう可能性もあるということです。
それは、へブル書にも書いてありますから、間違いありません。ですから、「私たちは選ばれている
のだから、間違いなく天に上げて頂ける」と安易に考えるのは、間違っています。
私たちは、この二面性の真理が聖書には記されていることを認めなければなりません。それを、
一面だけで捕らえようとして、「自分は選ばれているから安心だ」と信じる根拠は、全能主から
そのように直接聞いているからでしょうか。それとも、勝手に思い込んでいるからでしょうか。
もし、それを勝手に思い込んでいるなら、無理があります。聖書の言葉が自分に適用されていると
信じ込む根拠は何なのでしょうか?パウロさんのように、「捕らえたなどとは考えていない」と
言っていることは、「天に行かなければ分からない」ということです。だから独断的な信じ方は
危険です。信仰は、信じ続けて行って、後は全能主にお任せするのが筋です。
(転)では、信じた私たちが、この地上にあって信仰を全うしていくためには、どのように考え、
どのように自分の意思を働かせて行くべきでしょうか?それは、イエス様が、マタイの福音書16章
24節で「自分自身を徹底的に否定し、自分の十字架を負って、私に従ってきなさい。」と言われた
ように、少なくとも「自分の考え、自分の思い、自分の知性」に頼る傲慢を砕いて、全能主の御心に
従って行くことです。「自分の知性に頼る」ということは、「どこまでも自分の考えに立ち、自我を
砕かない」ということです。このような人間の姿勢、考え方は、どこから始まったのでしょうか。
それは、13世紀のヒューマニズムからです。トマス・アクナスというカトリックの神学者は、
「人間の意志は堕落したが、知性は堕落していない」と言いました。そして、全能主を宇宙から閉め
出し、全能主に頼らなくても、「すべての問題は人間自身の知性によって、時間さえあれば解決できる」
と考えたのです。ところが、このアクナスの考えた「人間の意思は堕落したが、知性は堕落していない」
という考えは、実に身勝手な解釈です。そんなことは聖書に一つも書いてありません。むしろ、
聖書をよく読んで行くならば、「人間は、意思も知性も何もかも堕落している罪人である」という
ことが見えてくるはずです。ところが、トマス・アクナスが、「人間の意志は堕落したが、知性は
堕落していない」という勝手な解釈を、如何にもそれが正しいが如くに宣言したことによって、
世界中の人々がそのヒューマニズムの考え方に汚染され、今日の私たちも、当たり前のように、
その考えを土台にして教育されてきたのです。
しかし、私たちは、教会に来て聖書を読み、全能主の存在を知り、「今まで教えられてきたことは
間違っていた」ということを知りました。そして、「人間は、意思も知性も何もかも完全に堕落して
いる罪人である」ということをはっきりと示されたのです。ならば、私たちはもう自分自身の知性に
頼るのではなく、全能主の知性、全能主の考えに頼って判断して行く生き方に変えて行くべきです。
すなわち、全能主の心を自分の心にするということです。その意思を働かせて行動をとるかどうかを、
全能主は見ておられるのです。私たちが全能主に繋がるポイントはそこだけです。
(結)だから、私たちが全能主と繋がるための一番の近道は、自分の考え、思い、知性に頼る傲慢を
砕き、「自我を砕くこと」です。この心を持っていない者は天に上げられません。もし、傲慢な心を
持った者を天に上げてしまったら、全能主の御国はめちゃくちゃになってしまいます。全能主は、
そんな地上と同じ世界を造るために、新しい天と新しい地を創っておられる訳ではありません。
天の御国は、そこにいるすべての者が、自分が罪人であったことを受けとめ、遜り、「こんな者を養子
縁組して下さり、素晴らしい場所に招き入れて下さってありがとうございます。それは、私たちが
できなかった罪の償いを、イエス様が命を懸けてやって下さったおかげです」と、イエス・キリスト
を誉めたたえ、全能主に栄光をお返しする場所です。だから、自我を砕かない者が天に上げられる
ことはあり得ません。全能主に繋がるのは、「自分の知性に頼る傲慢を砕き、自我を砕いた者」
だけです。どうか、この真理を理解し、まず、自我を砕いて、自分の心を主に明け渡し、全能主を
第一にする生き方を始め出して行きましょう。
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