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2018年11月18日


『潔い信仰の心』

使徒の働き16:16~34



起) パウロがピリピでの看守に対する伝道を通して「自分の我を砕き、どこまでも全能主の考えに

合わせて行く、潔い信仰の心」
を学んで行きたいと思います。

(承)さて、パウロとシラスは、女奴隷の「占いの霊」を追い出したことがきっかけで、金儲けが

出来なくなった主人から訴えられ、獄に入れられてしまいました。しかし、その夜中に突然激しい

地震が起こり、獄の扉は全部開き、囚人たちを(つな)いでいた鎖も外れてしまったのです。

その瞬間、看守は、囚人たちが皆逃げてしまったと思い、自殺を試みました。ところが、奥の方から、

「自害してはいけない。私たちは皆、ここにいる」とパウロの声が聞こえたので、看守はほっとして、

パウロとシラスを安全のため外に連れ出し、「先生方。救われるためには、私は何をしなければなり

ませんか」と尋ねたのです。そこで、二人は、「主イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、

あなたとあなたの家族は救われます」と答えました。すると、看守は彼らを自分の家に連れて行き、

パウロたちの打ち傷を洗って、看守の家族全員が信じてバプテスマを受けました。そして、その後、

なんとパウロとシラスは再び獄に戻ったのです。このとき、二人は獄の外に連れ出されていたの

ですから、逃げようと思えば逃げ出せたはずです。しかし、二人は逃げずに、また獄に戻って行き

ました。ここに、信仰の潔さを現わしたパウロたちの信仰が表れています。看守は、この二人の姿を

見て、心が変わって行ったのです。本来、看守というのは、上からの命令によって、囚人を縛り

上げて獄に閉じ込め、彼らに苦痛を与える役目です。ところが、この看守は、彼らの打ち傷を洗い、

食事のもてなしまでしたのです。ここまでのことを看守がしたのは、パウロたちの潔い心、誠意ある

心が看守に伝わったからです。だから、看守も誠意ある行動をパウロたちに表しました。


(転)では、パウロたちのこの潔い心はどこから出てきたのでしょうか。

それは、
「どこまでも全能主の考えに合わせて生きて行こう」としていた彼らの潔い心から出てきた

ものです。
では、私たちはどうでしょう。全能主に対して潔い信仰の心を表しているでしょうか。

否むしろ、私たちは、「自分は信じたのだから、こうしてほしい、こうありたい」と、自分勝手な願い

ばかりしているのではないでしょうか。確かに、聖書には、「求めなさい。そうすれば与えられます」

と書いてありますので、祈れば叶えられると考えがちです。しかしながら、自分勝手な損得勘定で

全能主を利用しようとする祈りは、いくら求めても、その祈りは叶えられません。それは当然のこと

です。なぜなら、全能主は生きておられ、聖なる感情も持っておられる方だからです。

しかも、全能主は私たちの主権者であって、しもべではありません。ですから、「全能主の御心に

適った祈り」をしていくなら、全能主は喜んで祈りに耳を傾けて下さるでしょう。

しかし、「こうしたい、こうありたい」と、自分の求めばかりして、自分の都合のいい祈りばかり

する者は、全能主を利用するだけで、白き御座の審判で裁かれて終わりです。しかし、今はまだ

白き御座の審判のときではありませんので、私たちにとっては猶予期間の中にあります。

とはいえ、世の終わりはもう目の前に来ており、そんなに長い期間が私たちに残されているわけでは

ありません。今の時代は、ついに「666」が全国放送でテレビに映し出される時代になりました。

世の終わりはすぐそこまで来ているのです。だから、もう自分の考えに立って、我を表している時期

ではありません。むしろ、自分の主義主張、我を砕き、全能主にとって使い(やす)い人間になって

行かなければなりません。全能主にとって使い(やす)い人間とは、いちいち自分の意見を述べる

ようなことをせず、ただ素直に聞き従って行く者です。それは、「自分はこれをしたい」とか、

「これが得意だからやらせて下さい」とか、そういう身勝手な主張をしないことです。

ただ、
全能主に「やりなさい」と言われたことを、「分かりました」と、やらせて頂くのです。

そのために必要な能力は、全能主がその時々に与えて下さいます。使い易い人間とか、使い(にく)

人間というのは、人の持つ能力の如何によって決まるのではありません。ただ、
「自分の我を砕いて、

全能主の考えに合わせて行こうとするかどうか」だけです。
その心さえあれば、誰でも全能主に

使って頂けるのです。


(結)どうか、この真理に立って下さい。私たちは罪人だということを忘れてはいけません。

罪人は義を立てることはできません。だから、自分の我を砕き、どこまでも全能主の考えに合わせて、

素直に聞き従って行くのです。それが、全能主に対する潔い信仰の心です。パウロとシラスは、獄に

留まっても、自分の損得に立ちませんでした。それは、
全能主に全てを委ねている信仰の心があった

からです。だから、看守に対しても、真の心を表すことが出来たのです。
そして、信仰によるその

潔い心で看守に応え、看守も誠意ある行動を表しました。私たちは、これから全能主に対してこの

潔い信仰の心を表して行くのです。
それは、自分の我を砕き、どこまでも全能主の考えに合わせて

行くこと」
です。この潔い信仰の心を全能主の前に表して行こうではありませんか。    


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