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2018年10月14日


自分の弱さを正直に認めて、真実な信仰を始め出す

マタイの福音書26:36~46



起) マタイ26章36節から、イエス様のゲッセマネの祈りを通して、「罪人として生まれた者は、

自分の弱さを正直に認めて受け留め、そこから真実な信仰を始め出すこと」を学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、イエス様は聖なる方であるにもかかわらず、絶対主の命によって、あえて罪深い肉を

身に纏(まと)って(ロマ8:3)、この地に来られました。しかし、イエス様は、たとえ罪深い肉

っていても、そこには意識をとめられず、どこまでも絶対主の御子として、この地上を

歩んで行かれました。すなわち、「自分は多くの人の贖いの代価として、自分の命を与えるために

来たのです」という意識をはっきりと持っていたのです。ところが、十字架の目前になって、

ゲッセマネの園で祈られた時、イエス様は、罪深い肉を(まと)った者としての心を初めて表され

ました。

これからイエス様は、十字架にかかり、ハデスに行くということに対して恐れを抱かれ、「わたしは

悲しみのあまり死ぬほどです」と祈られたのです。なぜなら、
ハデスに行くということは裁きの場に

行くということであり、絶対主から完全に見捨てられる世界に行くこと
です。だから、「もしできる

ことなら、どうかこの杯をわたしから過ぎ去らせて下さい」と、ご自分の正直な気持ちをさらけ

出されました。これは
完全無欠なイエス様の言葉ではなく、罪深い肉を(まと)った者としての

イエス様の言葉
でした。 しかも、同じ祈りを三度も繰り返された程に悲しみ、苦しみもだえて

おられたのです。しかし、その後にようやく、「もうこれ以上、悩み、苦しみもだえていても仕方

がない。元々父の御心でここに来たのだから、これは逃げられない。行くところに行く」と心に

定められました。


(転) では、私たちはどうでしょうか。イエス様がここまでご自分の弱さを表されたのに、

私たちは自分の弱さをさらけ出しているでしょうか?私たちも、生まれながらに罪深い肉を

(まと)
っていることは事実で、弱い自分を持っていることは間違いないことです。それなのに、

「救われたからと言って、罪を犯さない人間のように振る舞って」、弱い自分自身を正直に表そう

としない生き方をしています。それは何故でしょうか。それは、「人から馬鹿にされたくない」

という思いが強く、「弱い人間では仲間外れにされる」と思うからです。だから、如何にも強い子

のように、良い子振って弱い部分を持っていないお利口さんのように振る舞おうとしているのです。

これは、偽善なパリサイ人と同じです。このように自分自身を人前に正しく見せようとしてきた

人生は、まさに偽善者の塊で、嘘つき人生です。本当の私たちは、イエス様がゲッセマネの園で

祈られたと同じ弱さを抱え込んでいます。イエス様は、内側に聖なる方としての一面も持っておら

れましたが、
私たちは内側も外側も、全部罪深い肉を(まと)っている100%罪人の人間です。

ならば、その自分自身の本当の弱さを自覚するべき
です。そして、その弱さを正直にさらけ出す

ことによって、初めて救いを必要とする本来の自分自身が出てくるのです。なのに、弱さをさらけ

出すことをせず、逆に隠しているなら、救いを必要とする自分であることを、絶対主に隠すことに

なります。ということは、贖い主であるイエス様とは繋がりません。だから、それは絶対に間違って

います。私たちは罪人で、何もできない弱い卑怯な人間です。
「いくら正しいことをしたいと

思っても、その正しいことをして行く勇気さえない、そんな惨めな弱さを抱え込んでいる者です。」


しかし、私たちが持っている その弱さを、イエス様がそのまま表して下さいました。イエス様は、

罪深い肉をあえて(まと)うことによって、私たちと同じ弱さを担っている者として、私たちが本来

すべき叫びの祈りを代わりにして下さったのです。すなわち、
私たちが本来味わわなければなら

なかった苦しみを、イエス様が代わりに味わって下さったのです。
そのイエス様が正直に弱さを

現して下さった御陰で、私たちは、こんな弱さを抱えた、どうにもならない罪人でも、そのイエス様

の贖いによる救いを通して、
「私たちは弱さを認めたままで救いを受け取ることが出来るのです。」

私たちは、あれができるからとか、或いは、何か賜物があるから、という利口さの故に、天に

上げて頂けるのではありません。むしろ、何もない弱い罪人にすぎません。むしろ、私たちの

中には醜い心しか持ち合わせていません。それでも、そんな情けない、弱さしか持ち合わせてない

私たちのために、贖いの代価として自分の命を与えるために、イエス様が来て下さったのです。

だったら、私たちは自分たちの弱さを隠したり、恥じたりする必要は一切ありません。


(結)私たちは、いくら自分の弱さや愚かさを自分の中から追い出したいと願っても、それは

決して出来ません。むしろ、自分はそういう者だという事実を認めさせられるだけです。ですから、

その弱さを正直に全部認めて、受け留めるべきです。それをしてこそ、初めて真実なクリスチャン

の信仰の第一歩を踏み出すことができるのです。イエス様は その道を通られました。すなわち、

自分の弱さを認め、その弱さを心で受け留めて、そこから立ち上がられたのです。ならば、まして

私たちはそうして行くべきです。すなわち、
罪人であることを「その通りです」と、ありのまま

認め、受け留めて行くのです。
私たちが絶対主に仕えて行くためには、「強い人間にならなければ

ならない」と思うのは間違いです。どうか、
罪人である自分の弱さを正直に認めて受け留め、

その自分の正直な心を表して、そこから真実な信仰を始め出して行こう
ではありませんか。 
 


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