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2018年10月7日


『「絶対主ありき」の生き方を始め出す』

マタイの福音書20:20~28



起) 「どこまでも絶対主を第一にして、信仰の当事者となり、『絶対主ありき』の生き方を始め

出す」ということを学んで行きたいと思います。


(承) さて、あるとき、ヤコブとヨハネの母がイエス様の許にひざまずき、「私の二人の息子が、

あなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、お言葉を下さい」と願い出ました。

すると、イエス様は、彼らに「あなた方は、わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」

と聞き返されたのです。それは、この後弟子たちは皆イエス様を証して行く中で、イエス様と同じ

ように迫害を受け、殉教して行きます。しかし、それはイエス様と同じような道を歩んで行くこと

ではないからです。たとえ同じような道を歩んだとしても、弟子たちとイエス様とでは次元が違います。

どういうことかと申しますと、イエス様がこの地上に来られたというのは、「罪のないお方が、あえて

罪深い人間の肉を取って、罪人の世界に入られた」ということで、それは絶対主の御子であられる

イエス様にとっては、あり得ないことです。また、聖なる方にとっては、考えられない屈辱的なこと

です。しかも、十字架の道に向かうということは、罪人が 裁かれて行く所です。なのに、あえて

イエス様は絶対主の命に従い、実にハデス(黄泉、白き御座の裁きが行われる前の、苦しみの場所)

まで下られたのです。この
イエス様の苦しみは、単なる十字架上の苦しみだけではなく、罪人が

絶対主から見捨てられる苦しみですから、私たちがイエス様と同じ苦しみを担うことは到底できない


ことです。


(転) では、イエス様に近づくためには、私たちはどうしたら良いのでしょうか。それは、

イエス様と同じように、苦しみを担って、自分の体を裂いていくことでしょうか?それは考え違い

です。人が幾ら苦しみを担ったとしても、それは 罪人として当然のことです。だから、十字架の

真似をすることではなく、むしろ
イエス様が通られた「絶対主ありき」の生き方を真似して行くこと

です。先程もお話ししたように、絶対主の御子が罪人と同じ肉を取ってこの世界に身を置かれた

ということは、完全に絶対主に仕える心を持っていなければできなかったことです。そこには、

徹底的に絶対主に仕えて行くイエス様の生き様こそ、どこまでも「絶対主ありき」の生き方を通す

生涯であったのです。ですから、
もし私たちがイエス様に近づきたいと思うなら、その「絶対主ありき」

の生き方を、この地上で表して行く事
です。そして、その上で、「聖書に書いてあることは今日も

起こる」ということを、私たちは信じて行くのです。
聖書に記されている内容は、物語ではなく、

この地上で絶対主を信じたクリスチャンの実際の証しですから、私たちもイエス様と同じように、

徹底的に絶対主を信頼して行くなら、聖書に記されていることを同じように経験し、絶対主の全能の

力を味わって 行くのは、信じた者として当然のことではないでしょうか。だから、私たちの教会は、

「聖書に書いてあることは今日も起こる」と信じ、何でもおできになる絶対主を信じてここまで来た

のです。だったら、私たち一人一人がその当事者となり、絶対主を最後の最後まで信じ、どこまでも

仕えて行く、「絶対主ありき」の生き方を貫徹しようではありませんか。 いい加減、様子見はやめ

ましょう。「自分は弱いとか、能力がないとか、失敗ばかりしてきたとか、賜物がない」とか、

いつも自分ばかりを見て、絶対主に仕えて行けるかどうかと考えている時ではありません。いくら

罪人の自分を見ても答えは出て来ません。ならば、
自分を見るのではなく、絶対主だけを見ていく

べきです。
私たちは確かに罪人ですが、その罪人が「絶対主ありき」の生き方をして行くことを、

絶対主は喜んで下さるのです。なぜなら、私たちが罪人であることは分かった上で、絶対主はイエス

様によって贖って下さったのですから。だから、私たちが絶対主に一途に従って行く姿を見て、

絶対主は、「お前のためにイエスを送って良かった」と満足して下さるのです。


(結) 私たちは、この命を閉じるときまで、自分の罪とは切っても切れません。だから、「自分は

罪人だから絶対主に仕えて行くことができない」と言ったら、死ぬまで絶対主を第一とすることが

できません。しかし、
絶対主が私たち罪人の贖いの代価としてイエス様を送って下さったなら、

そのイエス様の贖いを根拠にして、私たちは絶対主に近づくことができる
のです。そして、「罪人で

あっても、わたしに従って来なさい」と言って下さっているのです。ならば、私たちはどこまでも

この絶対主を第一にして生き始めましょう。今日から
信仰の当事者となり、単なる観念的な信仰で

はなく、「絶対主ありき」の本物の生き方を始め出して行こう
ではありませんか。      


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