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2018年10月21日


絶対主ありき』の大切な心

使徒の働き1:4~11



起)「自分の考えを横に置くことを実践し、どこまでも絶対主を第一に考えて行く『絶対主ありき』

の大切な心を身に付けて行くこと」を学んで行きたいと思います。


(承) さて、イエス様は、十字架にかかられてから三日目に甦り、その後弟子たちの前に四十日間

姿を現され、絶対主の御国について語られました。そして、弟子たちに「私こそメシヤであり、

罪を贖ったのですから、そのことを信じる者は絶対主が天の御国に入れられる」ということを証して

行きなさいと、語られました。そして、その宣教のために、「あなたがたは、これから力を受けます」

と約束されたのです。

 ところが、弟子たちは、話をどこまでも地上的な感覚で受け留め、イエス様の真意を()

取らず、「主よ。イスラエルのために王国を再興されるのは、この時なのですか」と、とんちんかんな

質問をしました。では、そんな弟子たちが、いつイエス様の真意を理解して証しを始めたの

でしょうか。それは、聖霊のバプテスマを受けた後からです。彼らは、聖霊のバプテスマを受けた

ことによって、御霊によって全てのことを教えられ、異言によって外国の言葉を語り、絶対主の奥義

を語り出しました。そして、「イエス・キリストによる罪の贖いを信じ受け取れば、天の御国に

入れていただけるのです」と、大胆に語り始めたのです。すなわち、今までずっと地上的な物の

見方で物事を考えていた彼らが、聖霊の満たしを受けた後から、突然天的な見方で物事を考える

ようになり、御霊が語らせるままに、イエス様が言われていた御心を理解して語り出したのです。


(転) しかしながら、今日の私たちはそれだけではいけません。どういうことかと申しますと、

使徒たちは、聖霊の満たしを受けたことによって、半ば強制的に、彼らの地上的な物の見方を横に

置かれ、天的な物の見方に心が変えられました。しかし、
強制的ということは、地上的な見方を、

自分の意志で砕くということをやっていなかった訳です。となると、聖霊の働きが終わると、また

地上的な物の見方に戻ってしまう可能性が十分あると言うことです。そのため、使徒時代には、


度毎
に満たしが必要であったのです。ですから、私たちはそうであってはいけません。

使徒たちの場合は、福音の初めの働きでしたから、強制的に心が変えられる必要があったかもしれ

ません。しかし、今は違います。私たちは、もう全てのことが知らされた中にあるので、自分の

意志で、世的な考えを横に置き、絶対主の御心にしたがって、当然天的な見方をしていかなければ

なりません。それだけ、これからの働きは、絶対主の意向に沿った心を持って働いていかな

ければならないということです。なぜなら、世の終わりをルシファーも十分承知していること

ですから、彼らは、強力に我々に邪魔して臨んでくるのです。私たちは、絶対主の集大成の働きに

用いられて行くのですから、当然自分の思いを砕き、どこまでもへりくだって絶対主に仕えて行く

心が、必要となってきます。ですから、私たちは、
「自分の思いに立つことは、自分の当たり前の

権利だ」
と思っていたら、絶対主の意向に沿った働きは絶対に出来ません。このルシファーに

騙されていた権利の行使は、大間違いだったと悟り、むしろ
「私たちは自分の思いを横に置いて、

どこまでも絶対主の御心を第一にして、聞き従って行く」と、自分の肉の思いを横に置く習慣を身に

付けて行く必要があります。
その為に、一番いい方法は、怒られている最中(さなか)に、自分の考えを

砕いて行くことを
実践して行くのです。それが、怒られてしばらく経ってからの反省では、身に

付いていきません。なぜなら、自分の頭であれこれ考えた後の反省は、無条件なへりくだりでは

ないからです。それは、自分を守るための反省であって、頭で理解したに過ぎません。しかし、

怒られている最中(さなか)で自分の感情や考えを横に置いて相手の言っていることを聞くことができる

ようになれば、相手が言っていることの意味がよく分かるようになります。そして、
「確かにその

とおりだ。それは、へりくだって聞いて私が改めて行くべきだ」
と受け止めた時に、自分の心の中に

悟りと決断が生まれるのです。このように、自分自身から出た心から行えば、「悟ったこと」は

改めて行くことができます。しかも、それが霊的な成長に繋がっていくのです。このように、

怒られている最中(さなか)に、この行動を始め出さなければ、頭だけの理解で終わってしまい、たとえ

後から反省しても、しばらく経つと簡単に元の状態に戻ってしまうような腑抜けの信仰になって

しまうのです。


(結) こうして、まず私たちは自分の思いを横に置くことを徹底的に実践して行きましょう。

それなくして、絶対主に従うことはできません。自分の考えや自分の思いを目の前に置いていて、

どうして絶対主に仕えて行くことができるでしょうか。確かに、自分の感情、自分の肉の思いは、

死ぬまでなくなりません。だから、これは砕き続けていく事柄です。「自分は感情高いからしょう

がない」と言う人もいますが、それはただ、自分の感情を優先したいが為に、言い訳をしているに

過ぎません。自分を甘やかしているだけです。誰でも横に置こうと思えば置けるのです。どうか、

自分の考えを横に置くことを実践し、どこまでも絶対主を第一にして行く、「絶対主ありき」の

心を身に付けて行きましょう。
  
  


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