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2017年 NO.612 |
イエス・キリストの救いを信じた者は、自分の命の預けどころを知ります。すると、信じる前の 気の弱さとか、臆病な心とか、能力のない自分の劣等感などは、どうでも良くなります。 それは、人間の肉の欠点や惨めな生い立ちや、生まれながらの性格の悪さなど、全て承知の 上で、絶対主はイエス・キリストの贖いの故に受け入れて下さったからです。それが分かった 時、自分の肉は消えないし、変わらないものだと分かります。それは、生まれながらに罪人に 過ぎなかった者が、ただキリストの贖いの御陰で救われたからです。もし人間の努力で救える ものなら、絶対主はイエス様に、「死んでこい」とは言われなかったでしょう。だから救われた と言えども、クリスチャンは一生涯自分の罪と付き合って行かねばなりません。それなのに、 信じた動機が「自分の惨めな性格を変えたい」というところにありましたので、信じた者の 祈りは、「その願いが叶えられるように、一生懸命自分が変わることを願って、必死に祈って 行く」のです。 ところが、その祈りは叶えられませんでした。何年経っても、罪人のままです。しかし、 それはそのはず、「人はどうにもならない惨めな罪人で、自分の努力では自分を救えなかった ので、イエス・キリストが身代わりとなって罪の償いをして下さいました。」それを、私たちは 信じて受け入れただけです。ですから、キリストの救いを受け入れた者として、地獄の裁きから 逃れられ、絶対主の赦しの故に天の御国に入れて頂く者とされました。だから、この地上に ある限りは、生まれながらの罪人である自分はそのままです。しかし、御国に入れられる時は、 罪から完全に解放されます。ですから、絶対主にとっては、クリスチャンの肉の性質に関心が あるのではなく、クリスチャン一人一人が弱い罪人であることを認めて、救い主であるキリスト によって生きて行こうとする、新しい生き方をするかどうかに関心を持っておられるのです。 だから、絶対主も、この地上にあってクリスチャンの肉の性質を変えようとはされていません。 むしろ人間が、罪人であることの惨めさを知って、救い主の前にへり下って従って行こうとする かどうかを見ておられるのです。「私が今、肉体にあって生きているのは、私を愛し、私の ために御自身を献げられた絶対主の御子を信じ仰ぐことによって生きているのです」(ガラテヤ 2:20)というのが、クリスチャンのこの世の生き方です。ですから、この心を持ったクリス チャンは、キリストに頼って事を行おうとします。だから、自分の弱さに気を留めなくなり ます。すると、自分の弱さに捕らわれていない自分を発見するようになります。すると、 その時に、「自分は変わった」と言えば、「変わった」ということにもなります。だから、 自分の肉の力で、「自分を変えて行く」のではありません。いつも、「主を仰ぐ心」によって、 知らない内に変わって行った自分を見るのではないでしょうか。 気の弱さとか、能力のない劣等感などは、どうでも良くなります。そこに、クリスチャンの 太っ腹の大きさが生まれてくるのです。信仰は肉の願いを叶えてもらう御利益ではありません。 どこまでも主に依り頼む心によって生きて行くことが、クリスチャンのこの地上での生き方 です。こうして、自分の命の預けどころを知ったなら、患難時代を通って行く者として、 つまづくことはないでしょう。 |
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