(起)ヨハネの福音書21章1~14節の記事から、「弟子たちの信じる心」を学び、
「私たちも、信じる信仰に立つ」ということを学んで行きたいと思います。
(承)さて、弟子たちは、エルサレムからガリラヤに戻り、そこで漁をすることにしました。
しかし、その日は一晩中働いても、何も捕れませんでした。すると、明け方、甦られた
イエス様が岸に立っておられ、弟子たちに、「子どもたちよ。何か食べる魚がありますか」と
尋ねられました。弟子たちが、「ありません」と答えると、「舟の右の方に網を降ろして
みなさい。そうすれば、捕れるから」と言われたのです。彼らは漁師ですから、「いつ、
どういう場所で魚が捕れるか」ということはよく知っています。それでも、彼らはイエス様の
言葉を疑ったり、馬鹿にしたりせず、素直に受けとめて言われた通りに網を降ろしたのです。
そこには、弟子たちの「素直に信じる心」がありました。広辞苑によると、信じるとは、
「まことと思う。正しいとして疑わない。間違いのないものと認める。頼りにする。信頼する」
という意味です。ですから、もし「信じる」と言うなら、言われたことを「間違えのないもの
として認めて」、そのまま受けとめ、そのままやるという姿勢があるはずです。それは、
言い換えると、「言いなりになる」ということです。この時、まさに弟子たちはイエス様の
言いなりになって、言われた通りの行動を取りました。その結果、引き上げられない程の
たくさんの魚が捕れたのです。
(転)では、私たちはどうでしょうか。私たちは、福音を聞いて、「信じます」と告白してから
何十年も経っています。しかし、未だに、メッセージを聞きながら、あるいは聖書を読み
ながら、心の中で疑ったり、「これは理解できない」と思って反発したり、「ああだ、こうだ」
と頭の中で思い巡らすようなことを、当たり前のようにやっているのです。それは、本当の
意味でイエス様を信じたことにはなりません。先程も申し上げたように、信じるとは、
「まことと思う。正しいとして疑わない。間違いのないものと認める。頼りにする。信頼する」
という意味です。ですから、 イエス様を信じると言うのなら、メッセージで語られたこと、
あるいは聖書に書いてあることを、そのまま受けとめ、そのまま行動に移す。すなわち、
言いなりにすべきです。たとえ、自分自身がその御言葉を理解できなくても、「絶対主が
言われるなら、そうします」と言って、そのまま行っていくことが、「信じる」ということ
です。この世では、相手を信じて裏切られるということもありますが、私たちが信じる相手は、
人間ではなく絶対主です。絶対主は、私たちの命を造ってくださった方であり、私たちのために
ご自分のひとり子さえも死に渡された方です。そのようなお方が、信じる心を抱いて来る者を
裏切られるわけがありません。このお方だけは、どんなことがあっても信じて良いのです。
たとえ、自分に理解できないことが目の前で起こったとしても、最後の最後まで絶対主を信じ、
絶対主の言いなりになることが正しいのです。それなのに、20年、30年も「砕かれた心」を
持つように教えられ続けて来たということは、私たちは、本当の意味で絶対主を信じて
来なかったということです。それは、いつも絶対主の考えよりも、自分の考えを優先して
来たからです。だから、いくら「絶対主の考えはこうです」と教えられても、自分の心がついて
行かなければ、「はい」とは言わなかったのです。私たちは、その部分を砕かなければ
なりません。たとえ自分自身が理解できなくても、私たちは絶対主を信じるのです。すなわち、
「絶対主から言われたら、もうそれしかありません。分かりました。その通りやります」と
言って、絶対主の言いなりになることです。
(結)弟子たちは、イエス様の言葉をそのまま受けとめ、言いなりにした時に初めて、あんなに
素晴らしい経験をしました。だから、私たちも、これから絶対主に用いられたいという心が
あるのなら、たとえ「理解できない」と思う ことがあったとしても、常に心を開いて「その
通りやります」と言う心を持って、従って行きましょう。すなわち、「自分の考えはどこまでも
砕いて、言いなりになって従って行く」ということです。私たちには、その砕かれた心が必要
です。どうか、この「信じる信仰による歩み」を始め出そうではありませんか。
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