(起)「まず第一に、絶対主の国と絶対主の義を追い求めて行く」と決心し、どこまでも絶対主に
信頼し、絶対主の考えに従って行く生き方を学びたいと思います。
(承)さて、「命のことで思い煩うな」と記されている、この箇所を読んで行きますと、
「書いてあることは確かにその通りだ」と思います。しかし、実際にそれをして行くことは
非常に難しいことです。例えば、24節を見ますと、「誰も、二人の主人に仕えることは
できません。…あなた方は、絶対主と富に仕えることはできません」とあります。ところが、
クリスチャンであっても、現実には、絶対主と富の両方に心を向けて、二つのことに兼ね仕えて
いるのが現実です。口では「絶対主を信じています」と言いながら、同時に、「お金がなければ
生きて行くことができない」という考えも、当然のように持っている訳です。それは、「生きて
行くためには食べ物が必要であり、食べ物を手にするためにはお金が必要だ」という考え方が、
当たり前のこととして私たちの心に染みついているからです。特に、日本人である私たち
異邦人は、元々絶対主を知らず、絶対主を信じていません。ですから、「絶対主を信じて
いなかった」ということは、自分の命を創って下さったお方を心に留めていなかったという
ことです。ですから、「自分の力で道を切り開いて生きて行くしかない」と思うのは、しごく
当然のことでした。ですから、「食べる物や着る物」について、いつも思い煩い、心配するのは
当たり前のことです。確かに聖書を読めば、「書いてあることはその通りだね」と言いますが、
ふと頭で考えてみると、「じゃあ、野の花のように美しく装って下さると言うのなら、『それを
下さい』と絶対主にお願いすれば、次の日には新しい服が与えられるのか?」というと、
そうではありません。だから、「そんなことあるはずがない。無理に決まっている(28節~)」
と思うのです。となると、結局「聖書に書いてある通り信じても駄目じゃないか?」と、普通に
考えてしまいます。すなわち、「最終的には、絶対主よりも自分の知性を信頼し、自分の考えに
立って損得で生きて行くしかしょうがない」というのが、私たちクリスチャンの現実になって
しまいます。
(転)しかしながら、私たちの知性というものは、元々罪の中に堕落したものです。ですから、
すべてのことを正しく判断する力がありません。なぜなら、人間は生まれながらに罪人です。
だから、いくら知性を駆使しても限界があります。私たちは、幼いころからいろいろなことを
学び、正しい生き方をするために教育を受けてきました。しかし、いくら正しいと思うことを
頭で考えても、その通りに行かないのがこの世界です。なぜなら、この世界は罪の世界
ですから、悪魔がいつも邪魔してきます。私たちは、生まれながらに、この罪の世界の中に
あり、私たち自身も罪人なのですから、自分の力ではどうにもならず、自分の考えが正しいと
言い切ることもできません。いくら正しいと思うことを考えても、反対意見が出て来ます。
また、自分の知性にも限界があります。私たちの知性は完全に堕落していたからです。そこで、
私たちは自分の生き方をガラッと変えて行かなければなりません。それは何よりも、まず、
私たちに命を与えて下さった絶対主に信頼して行く生き方です。確かに、生きて行くためには
お金が必要であり、お金を得るためには仕事をしなければなりません。しかし、その仕事をして
食べて行けるということは、絶対主の助けがあるから可能となっているのです。決して自分の
力で生きているのではありません。私たちは、自分の命も、生きて行く環境も、また、生きて
行く食べ物も、元々初めから整えられていたのです。息を吸い、水を飲み、働く筋肉も、果物、
家畜、水も、空気や酸素も、すべて整えられて存在しているのです。だから、ずっと絶対主に
支え続けられて来たのです。現実に、働けばすべて手に入る訳ではありません。私たちが生きて
いく上で、働いてもどうにもならない状況はいくらでもあります。しかし、それでも生き続けて
来れたのは、絶対主の恵みの中にあったからです。だから、まず絶対主に信頼していくことが、
生きて行く秘訣です。もし、その心があるなら、絶対主は必ず答えてくださいます。
「空の鳥は、蒔くことも、刈ることも、倉に納めることもしていません。しかし、彼らは
生かされています。それなら、まして心を持つ人間に良くして下さらない訳がありましょうか
(マタイ6:26)。」だから、「生きて行くためにはお金も仕事も必要」ということは
事実ですが、それは絶対主よりも優先されることではありません。どこまでも、私たちに命を
与えて下さった方が、まず第一です。
(結)ですから、「まず絶対主の国と絶対主の義を第一にする。」と、心に決めてください。
そのように絶対主の側に立って判断し、行動した暁には、「これで良かった。」ということが
分かるのです。これを一つ二つ身につけて行くことによって、本当の意味で、絶対主に対して
生きて行くことが、クリスチャンの生き方だと確信が持てます。その確信があってこその
クリスチャンの生きがいです。どうか、「まず絶対主の国と絶対主の義を追い求めて行く」と
決心しましょう。そして、どこまでも絶対主に信頼し、絶対主の考えに従って行こうでは
ありませんか。
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