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2017年9月10日

『どこまでも絶対主に信頼し、絶対主の考えに従って行く生き方』

~まず第一に、絶対主の国と絶対主の義を追い求めて行く~

マタイの福音書6:24~34


(起)「まず第一に、絶対主の国と絶対主の義を追い求めて行く」と決心し、どこまでも絶対主に

信頼し、絶対主の考えに従って行く生き方を学びたいと思います。


(承)さて、「命のことで思い煩うな」と記されている、この箇所を読んで行きますと、

「書いてあることは確かにその通りだ」と思います。しかし、実際にそれをして行くことは

非常に難しいことです。例えば、24節を見ますと、「誰も、二人の主人に仕えることは

できません。…あなた方は、絶対主と富に仕えることはできません」とあります。ところが、

クリスチャンであっても、現実には、絶対主と富の両方に心を向けて、二つのことに兼ね仕えて

いるのが現実です。口では「絶対主を信じています」と言いながら、同時に、「お金がなければ

生きて行くことができない」という考えも、当然のように持っている訳です。それは、「生きて

行くためには食べ物が必要であり、食べ物を手にするためにはお金が必要だ」という考え方が、

当たり前のこととして私たちの心に染みついているからです。特に、日本人である私たち

異邦人は、元々絶対主を知らず、絶対主を信じていません。ですから、「絶対主を信じて

いなかった」ということは、
自分の命を創って下さったお方を心に留めていなかったという

ことです。ですから、「自分の力で道を切り開いて生きて行くしかない」と思うのは、しごく

当然のことでした。ですから、「食べる物や着る物」について、いつも思い煩い、心配するのは

当たり前のことです。確かに聖書を読めば、「書いてあることはその通りだね」と言いますが、

ふと頭で考えてみると、「じゃあ、野の花のように美しく装って下さると言うのなら、『それを

下さい』と絶対主にお願いすれば、次の日には新しい服が与えられるのか?」というと、

そうではありません。だから、「そんなことあるはずがない。無理に決まっている(28節~)」

と思うのです。となると、結局「聖書に書いてある通り信じても駄目じゃないか?」と、普通に

考えてしまいます。すなわち、
「最終的には、絶対主よりも自分の知性を信頼し、自分の考えに

立って損得で生きて行くしかしょうがない」
というのが、私たちクリスチャンの現実になって

しまいます。

(転)しかしながら、私たちの知性というものは、元々罪の中に堕落したものです。ですから、

すべてのことを正しく判断する力がありません。なぜなら、人間は生まれながらに罪人です。

だから、いくら知性を駆使しても限界があります。私たちは、幼いころからいろいろなことを

学び、正しい生き方をするために教育を受けてきました。しかし、いくら正しいと思うことを

頭で考えても、その通りに行かないのがこの世界です。なぜなら、この世界は罪の世界

ですから、悪魔がいつも邪魔してきます。私たちは、生まれながらに、この罪の世界の中に

あり、私たち自身も罪人なのですから、自分の力ではどうにもならず、自分の考えが正しいと

言い切ることもできません。いくら正しいと思うことを考えても、反対意見が出て来ます。

また、自分の知性にも限界があります。私たちの知性は完全に堕落していたからです。
そこで、

私たちは自分の生き方をガラッと変えて行かなければなりません
。それは何よりも、まず、

私たちに命を与えて下さった絶対主に信頼して行く生き方です。確かに、生きて行くためには

お金が必要であり、お金を得るためには仕事をしなければなりません。しかし、その仕事をして

食べて行けるということは、絶対主の助けがあるから可能となっているのです。決して自分の

力で生きているのではありません。私たちは、自分の命も、生きて行く環境も、また、生きて

行く食べ物も、元々初めから整えられていたのです。息を吸い、水を飲み、働く筋肉も、果物、

家畜、水も、空気や酸素も、すべて整えられて存在しているのです。だから、ずっと絶対主に

支え続けられて来たのです。現実に、働けばすべて手に入る訳ではありません。私たちが生きて

いく上で、働いてもどうにもならない状況はいくらでもあります。しかし、それでも生き続けて

来れたのは、絶対主の恵みの中にあったからです。だから、まず絶対主に信頼していくことが、

生きて行く秘訣です。もし、その心があるなら、
絶対主は必ず答えてくださいます

「空の鳥は、蒔くことも、刈ることも、倉に納めることもしていません。しかし、彼らは

生かされています。それなら、まして心を持つ人間に良くして下さらない訳がありましょうか

(マタイ6:26)。」だから、「生きて行くためにはお金も仕事も必要」ということは

事実ですが、それは絶対主よりも優先されることではありません。どこまでも、私たちに命を

与えて下さった方が、まず第一です。

(結)ですから、「まず絶対主の国と絶対主の義を第一にする。」と、心に決めてください。

そのように絶対主の側に立って判断し、行動した暁には、「これで良かった。」ということが

分かるのです。これを一つ二つ身につけて行くことによって、本当の意味で、絶対主に対して

生きて行くことが、クリスチャンの生き方だと確信が持てます。その確信があってこその

クリスチャンの生きがいです。どうか、「まず絶対主の国と絶対主の義を追い求めて行く」と

決心しましょう。そして、どこまでも絶対主に信頼し、絶対主の考えに従って行こうでは

ありませんか。

 


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