(起) 「自分の心の中に、恐ろしい反逆の罪があることを知り、悔いし砕かれた心を持って、
どこまでもへりくだって行くこと」について、学びたいと思います。
(承) さて、私たちは、ここ最近の学びと御霊さまの促しを通して、「自分の中には、
生まれながらに反逆の罪の棘が刺さっており、全能主に逆らう罪の根がある」ということに
気付かされて、それをはっきりと認めるように導かれました。しかし、この反逆の罪の棘が
自分の心の中にあることを知って、「これからはもう反逆しない」と決めたとしても、人から
責められると、自然に出て来てしまいます。ですから、「この罪は一番恐ろしい罪で、絶対に
表してはいけない」ということは十分わかっていても、その罪を表してしまう可能性があるの
です。なぜなら、その反逆の罪の棘は、天に行った時に初めて抜かれるのであって、この地上で
その罪が消えてしまうことは、決してあり得ないからです。ですから、クリスチャンで
あっても、「全能主に反逆して、永遠の命を失う危険性を常に持っている、どうしようもない
罪人である」という事実には、変わりはないのです。
(転) しかし、全能主は、「一度失敗したらもうダメ」とは言われません。「悔いし砕かれた
魂を軽んじない」と言われた全能主は、もし私たちが失敗し罪を犯しても、もう一度、御言葉の
前に出て、「自分が間違っていました」と、罪を正直に認めてへりくだるならば、「そこから
もう一度始めなさい」と言って下さるのです。私たちは、それをこれから一生涯して行く必要が
あります。なぜなら、先程も申し上げたように、私たちの罪がなくなることは一生涯
あり得ませんし、反逆の罪の棘も一生涯刺さったままだからです。その罪の棘があるが故に、
それが私たち自身の心の中の痛みとなっていることも事実です。そして、「感情が切れて、
それを表に出してしまう」ということも、ないとは言い切れないでしょう。しかし、その時に
心底悔い改め、全能主に服する心を表すならば、私たちはまだ全能主の前に生きる道が
あります。全能主は、「一度罪を犯したらダメ」という、一面だけを見られるお方では
ありません。例えば、第Ⅰコリント5章1節から見て行きますと、コリントの教会では姦淫の罪の
問題がありました。それは異邦人の間にもないほどのものでした。だからパウロさんは、
「そのような者の肉体を滅ぼすために、彼らをサタンに引き渡した」(第Ⅰコリント5:4)と
言っています。しかし、次の5節には、「その霊が主イエスの日に救われるためです」と
あります。異邦人の間にもないほどの姦淫の罪を犯し、サタンに引き渡されたにも関わらず、
「その霊が主イエスの日に救われる」と書いてあるのは、驚きです。しかし、聖書には、
このように二面性がきちんと記されているのです。実は、そこに全能主のお心があります。
第Ⅱコリント2章6節を見ますと、「その人にとっては、既に多数の者から受けた、あの処罰で、
もう十分なのですから、・・・その人を赦し、また慰めてやりなさい」とありますので、ひょっと
すると、姦淫の罪を犯してしまった人は、その罪を本当に悔いて苦しんだの かもしれません。
すなわち、悔いし砕かれた心を持ったならば、全能主は「悔いし砕かれた心を蔑まない」と
言われていますから、罪を犯して切れても、悔いて全能主から離れることをしなければ、
心底悔い改めてへりくだる者には救いがあるのです。それは、私たちも同じです。たとえ
全能主の前に罪を犯してしまったとしても、そこで悔いし砕かれた心を持つならば、全能主は
お赦し下さるのです。しかし、多くの人は、失敗したとき、「自分はもうダメだ」と言って、
自分が犯した罪を認めてへりくだることをせず、教会から離れて行きます。しかし、それを
したら、本当に全能主との繋がりが切れてしまい、死に至る罪になってしまいます。
(結) ですから、私たちは、もし全能主の前に罪を犯してしまったなら、その度毎に悔いて、
へりくだって行くべきです。それをして行く遜りがあるなら、御国への門は決して閉じられる
ことはありません。今回、一人一人が、罪の原点を御霊さまによって指し示され、御言葉に
よって捉えられました。しかし、それでも罪を犯してしまう可能性は、まだまだあります。
私たちは、あらゆることにおいて、「罪を犯さない」と言い切ることはできません。私たちの
罪の棘は、まだ取り除かれていないからです。それは御国に行くまで取り除かれません。
だから、私たちは、御国に迎え入れられるその時が来るまで、悔いし砕かれた心を持ち続けて
行かなければならないのです。どうか、一人一人が、「自分の中に恐ろしい反逆の罪の棘が
ある」ということを自覚し、悔いし砕かれた心を持って、どこまでもへりくだって
行きましょう。そして、その心を持って、最後まで信仰を全うしようではありませんか。
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