(起) 「今までの生き方をリセットし、イエス・キリストにあって生きる、生き方に切り替えて
行く」ということを学びたいと思います。
(承) さて、私たちの教会では、ここ2~3週間、「自分自身の心の中には反逆の精神が
あり、それはルシファーと同じ裁きを受けるほどの恐ろしい罪である」ということを教えられ、
その罪の棘が私たちの心に刺さっていることを学んで来ました。そして、その反逆の精神の
原点は、ルシファーの中にあった「何者かであるが如くに思われたい。屈したくない。
負けたくない。」という心が、私たちの中にもあることが示されました。そこで今日、この棘を
心の底に温存したままでは、いつまでたっても「イエス・キリストにあって生きる」という
生き方に切り替わって行かないということを学びたいのです。実際に、この罪の棘を
砕かなければ、絶対主の働きを始めても、自分の感情が付いて行かなければ、簡単に
反逆の精神が顔を出して、絶対主に逆らう道に向かって行ってしまいます。ですから人間の
頑なな罪は、それほど自分の我を立てようとするのです。だから、キリストにあって生きる
生き方に切り替わって行かなければ、主の働きに用いてもらうことは出来ません。なぜなら、
「イエス・キリストにあって生きる」という生き方に切り替わっていない人は、「キリストの
救いに預かっても、結局は自分のために生きて行く」という罪の中に生き続けるからです。
そういう人間は、自分にとって都合の悪いことが起こると、簡単に心を変えて主を裏切り、
絶対主に反逆して逃げて行きます。これでは、これからの働きに、絶対主は私たちを信用して
使うことが出来ません。罪人の人間の現実は、罪を犯しても裁かれたくないという自我が
強く働きます。そして責められて恥をかかされるぐらいなら、「絶対主から離れてもいい」と
さえ思うのです。この頑なな罪から、「屈したくない」という心が出て来るのです。
(転) しかしながら、罪人であり、取るに足りない私たちでさえ、この「屈したくない」と
いうこのプライドは、実に 強いもので、この思いを律法的に抑え込もうとして、自分に
言い聞かせて抑えられるものではありません。まさに、今日お読みしたロマ書7:23の
御言葉の中に、「私の体の中には罪の原理があって、それが私の心の律法に対して戦いを
しかけ、私の体の中にある罪の原理の中に、私を虜にしている」とあるとおり、「この思いを
抑えて行く」と決めて、自分に律法を科しても、その律法に「屈したくない」という罪の原理が
戦いをしかけ、最終的には罪の原理に敗北するのです。ですから、「屈したくない」という
反抗心は、律法的に捨てようとしても、いざとなったら簡単にその思いが出て来て、結局は
自分のプライドを捨てきれず、敗北するのです。人間の意志は、そんなに強くありません。
ですから、絶対主の前における本物の決断は、「何者かであるが如くに思われたい。
屈したくない。負けたくない」というルシファーの騙しに、本当の自分は、「ただ罪人でしか
ない人間だ」ということを悟ることから始まります。自分には、罪しかない人間だと分かれば、
もう自分に頼って生きて行こうとは思いません。即ち、自分に律法を科して改めて行こうという
手段は、無意味だと分かります。しかも、そんな私たちのために、イエス様が贖いをして
下さいました。そして、その贖いによって、私たちを律法から解放して下さったのです。
そのおかげで、「イエス・キリストにあって生きて行く」新しい生き方に切り替えて行くことが
できるのです。私たちは、このありがたい絶対主の憐れみと恵みに頭を下げ、へりくだって
考えを改めて行くべきです。そして、「自分は罪しかない人間で、取るに足らない人間だが、
一生懸命絶対主に仕えて行こう」という方向に向かって行くのが、絶対主の前における正しい
悟りです。それを悟って初めて、見栄を張って生きてきた今までの生き方をリセットし、
イエス・キリストにあって生きるという新しい歩みを始め出すことができるのです。
(結) 私たちが今まで自分の罪を自覚できなかったのは、私たちの内にある「屈したくない」
という思いが原因です。その思いがあるが故に、反逆の精神を表し、自分の罪を素直に認める
ことができなかったのです。この反逆の精神というのは、自分が罪を犯したときに出てくる
ものであり、それは、罪の上に罪を上塗りする行為です。そんなことはもう止めましょう。
罪人が罪を犯したのなら、叱られ、裁かれ、責任を負わされるのは当然のことです。
だから、それはそのまま受けとめていけば良いのです。絶対主は、その受け止めて行く
遜った心を、決して軽んじる方ではないからです。人に軽んじられても、絶対主に
受け止められたなら平安があります。どうか、「屈したくない」というプライドは無意味だと
悟り、見栄を張って生きてきた今までの生き方をリセットし、「イエス・キリストにあって
生きて行く」新しい歩みを始め出そうではありませんか。
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