(起) ガラテヤ書3章2~3節の御言葉から、「御霊で始まったあなた方が、今になって肉の
力で仕上げるというのですか。」という御言葉から、「義人は、信仰によってキリストに頼って
生きて行くことが、救われたクリスチャンの地上での歩みである」ということを学びたいと
思います。
(承) さて、このガラテヤ書には、「恵みによってイエス・キリストの贖いを受けたの
だから、これからは律法によってではなく、イエス・キリストにあって生きて行きなさい」
という、救われたクリスチャンの地上での歩みについて書いてあります。しかしながら、
律法的な目に見える行いが「正しいもの」と考える意識は、子どもの頃から当然の事として
教え込まれていますので、それをしていくことが、人間の正しい歩みですと刷り込まれて
います。ですから、クリスチャン達も、どうしても自分自身の律法的な正しい行いによって、
自分が救われていることを確認し、また、クリスチャンがして行く正しいキリストの証しで
あるように考えています。すなわち、良い行いをして行くことが、救われた者としての生き方
だと思い込み、その方向に向かってしまうのです。この意識は、ユダヤ人であっても異邦人で
あっても、同じように考えてしまうのです。
(転) しかしながら、その意識は間違っています。なぜなら、「人が義とされるのは律法の
行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを知って、私たちも
キリスト・イエスを信じたのです。…なぜなら、律法の行いによっては、誰一人義と認められ
ないからです。」とあるように、まず私たちが知ることは、人は、律法は負いきれないもの
であって、私たちが出来る行いは、キリストを信じ続けることであって、罪人である自分の
真の姿を認め続けて行くことです。実際、私たちは正しい人間となって、罪のない人間に
変わって行くことはできません。もし、それができるなら、イエス様の贖いは必要がなかった
でしょう。だから、全能主は私たちが本当に救いようのない罪人だからこそ、心をかけて
下さり、イエス様を通して贖いをして下さったのです。なのに、こんな生来の罪人に対して、
「私たちは救われたのだから、これからは罪を犯さない正しい人間になるべきだ」と、ペテロ
さんのように、元に戻って行けば、「一旦打ち壊した律法を、再び建てることになり、キリスト
の恵みから落ちてしまうのです。」キリストの救いは、全能主がひとり子であるイエス様に、
「お前が代わりに罰を受けてやれ」と言われ、イエス様をこの地上に遣わして下さったの
です。そのイエス様のおかげで、私たちは全能主のもとに迎え入れていただける者となり
ました。この救いは、決して私たちの行いや努力によるものではありません。ですから、
私たちは、「自分はイエス様の贖いを受けなければどうにもならない罪人だった」ということ
を、きちんと自覚しているべきです。それを、また行いに置き換えてしまうなら、罪人のため
に命を捨てて下さったイエス様の贖いを無にすることになり、また、自分の行いに頼って行く
ことによって、自分が罪人であることを棚上げにしてしまうことになります。
ないがし
この罪を棚上げにする行為は、イエスさまの救いを蔑ろにすることであり、全能主が一番
嫌われることです。なぜなら、罪人は初めから罪人なのですから、その事実を認めない者を
救う必要がないからです。これは、動かない事実ですから、しっかり心に留めて行かなければ
なりません。しかし、それを心に留め続けて行くと、普通の人は、「罪を意識ばかりして、
うつ病のようになってしまいます。なぜなら、ダメな自分、どうしようもない自分、醜い自分、
惨めな自分だけを見続けて生きていても、そこに希望がない」と思うからです。だから、
ほとんどのクリスチャンは、罪人でない自分に変わろうとして、表面だけ飾って行く偽善者に
なるのです。しかし全能主は、「どこまでも認め続けて行け」と言われるのです。だからと
いって、「うつ病になって、何もできない人間になれ」と仰っておられるわけではありません。
では、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
それは、こんなどうにもならない私たちのために、イエス様が死んで下さり、贖いをして
下さったのですから、そこを見て生きて行くことです。すなわち、「自分には何の力もあり
ませんから、どうか私をお助け下さい」という、へりくだった心を もって、イエス様に心を
向けて歩んで行くのです。これが、キリストにあって生きて行くということです。なぜなら、
私たちは自分に根拠を置いて歩むことのできる義人ではないからです。しかし、この生き方を
しょうとすると、すぐ邪魔してくるのが悪魔です。悪魔は「罪人のままでいいのか? 全能主
の前に正しい人間にならなければいけないだろう。本当にこのままでいいのか?」と囁いて
きます。私たちはいつもその声に騙されて、「このままじゃいけない。ここから何とか立ち
直って、全能主に受け入れられる人間になろう」という方向に向かって行くのです。しかし、
この意識は、ルシファーが持って失敗した罪です。ルシファーは、自分の能力に頼って傲慢に
なり、全能主から離れたのです。ここで、思い知らされるのは、現実は、罪人のままの自分、
何もできていない自分であることを認めて、救い主であるキリストに頼って生きて行くこと
です。だから、もしルシファーが、「罪人のままでいいのか?」と声をかけてきたら、「私は
罪人である以外、何者でもない」と、正直に認めればいいのです。
私たちが罪人であることは動かない事実なのですから、そのまま受けとめるべきです。
しかも、その事実の故にイエス様の贖いがあったのですから、「これからは、イエス様に
あって、生きて行きます」と、へりくだって私たちは歩むのです。
(結) 私たちの救いは、御霊で始まったのであって、自分の行いによって始まったわけでは
ありません。ですから、今になって肉の力で仕上げようとすることは、間違っています
(ガラテヤ3:3)。今まで何度、自分自身の努力によって再起を計り、立ち直ろうとした事
でしょうか。でも、立ち直るだけの力はなかったのです。これが私たちの現実です。だったら、
自分の力で立ち直ろうとする傲慢な思いは捨て去り、罪人の自分を自覚しながら、へりくだって
イエス様に依り頼んで行けばいいのです。もし、「罪人のままでいいのか?」というルシファー
の声が聞こえてきたら、「こんな自分のためにイエス様が贖いをして下さり、イエス様の
おかげで私は救われたから、このイエス様にあって、一歩踏み出すだけです」と言って退け
ましょう。そして、どこまでも、イエス・キリストにあって生きて行こうではありませんか。
これが、救われたクリスチャンの地上での歩みの心です。
|