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2017年5月28日

地上のご利益ではなく、天に望みを置く

ローマ人への手紙8:18~23

(起) ローマ書8章23節の「子の身分を授けられること、すなわち、体の贖われることを

待ち望んでいるのです」という御言葉から、「地上のご利益ではなく、天に望みを置く」歩みに

ついてことを学びたいと思います。

(承) さて、新約聖書は、イエス様が十字架にかかって死なれ、甦られて天に行かれた後に、

弟子たちによって書かれた書物です。この書物の書かれた時代は、常に死と隣り合わせの時代

でした。それは、「イエス・キリストは甦られて今も生きており、この方によって救われる」

と言う事を述べ伝える働きは、イエス・キリストを十字架につけたローマ帝国に対する反抗

でもありました。ですから、当時弟子たちや、キリストを信じるクリスチャン達に対して、

激しい迫害が起 こっていました。それでも、その迫害の真っ只中で、キリストを信じるクリ

スチャン達は、絶えませんでした。そこには、 ある特徴があったのです。それは彼らには、

ハッキリとした復活の望みと天にある永遠の命の希望があったと言う事です。

その根拠はキリストの甦りでした。彼らは、この地上のご利益ではなく、天に望みを置いていた

ので、命を懸けて 伝道することが出来ました。同じように、日本にもキリシタンへの迫害の

時代がありました。日本の場合は、この地上に望みを置くことができなかった貧しい農民や、

戦いに明け暮れていた多くの武士たちがキリシタンになりました。どういうことかと申します

と、農民の方々は、一生懸命働いても、その実のほとんどが年貢で取られ、自分たちの口に

する食べ物もありませんでした。だから、何のために働くのかも分からず、この地上に望みを

置くことができなかったのです。また、武士の人々も、何のために命をかけるのかわからない

時代でした。そんな中で、「命を失っても、新しい命をいただいて、天の御国で永遠に生きる

ことができる」、「その救いを与えるために、全能主のひとり子がこの地上に来て下さった」

という福音を宣教師から聞いたのです。その福音を信じた彼らは、「このまま、この地上で

生きていて命を長らえても 何の意味もない。たとえ迫害によってこの命が奪われることが

あっても、新しい命をいただいて天に入れていただけるのなら、その方に望みを置いて信じて

いこう」と、強い信念を持ったのです。彼らは、キリシタン禁止令の最中にあっても、この

福音を信じる信仰のゆえに、殉教を覚悟の上で信じ、命を懸けて信仰を全うして行ったのです。


(転) では、今日の私たちの時代では、どうでしょうか?

今の時代は、キリストを信じているからといって迫害されることは一切ありませんし、生きて

行くことにおいても何の妨げもありません。だから、迫害時代の聖徒たちのように、「自分の

望みは天だ」というはっきりとした意識を持っていません。逆に、この地上に望みを置き、

信じることによるメリット(ご利益)を、この地上に求めているのです。すなわち、「人から

認められる有名人になりたい」とか、「地上のあらゆる問題を解決してもらいたい」という

願望を満たすために、キリストを利用しているのです。だから、自分の罪を指摘されることや、

自分が恥をかかされることや、自分が罪人だと裁かれることを極端に嫌います。そこには地上

で生きて行くメリット(ご利益)がないからです。逆にこの地上では、「自分は罪人です」と

認めたら、人から馬鹿にされ、見下されて、生きて行く力を失ってしまいます。だから、自分

の罪を指摘されることを嫌うのです。しかし、人から馬鹿にされ、見下されて、生きて行く力

のない罪人を救うために、キリストは来て下さいました。なぜなら、全能主がイエス様に、

「罪人の贖いの為に、死んで来い」と言われたからです。ですから、
「人間は生まれながらに

罪人です」と認める人には、キリストの贖いがあります。
しかし、罪がないという人には、

「イエス・キリストを信じている」と言っても、天には繋がりません。なぜなら、罪がないと

いう人は、自分で自分を救ったらいいからです。
キリストは、「罪を認めたくない。恥をかき

たくない」と言う者のために十字架にかかられたのではありません。だから、私たちはもう

これ以上、自分の罪を誤魔化してはいけません。 福音書に記されている、イエス様が語られ

た山頂の垂訓を基準にして自分自身を見たならば、誰もが、自分には罪がないなどとは言えま

せん。イエス様のことばを基準にしたら、文句なしに、「私は生まれながらに罪人です」と

認めざるを得ないのです。
私たちは、「何か人から指摘されるような罪を犯したから罪人」

ということではなく、生まれながらに罪人なのです。


(結) こういうわけで、私たちの望みは、キリストにあって御国に引き上げられ、この罪の

体が贖われて罪から解放されることです。ということは、この地上に救いの望みがあるわけ

ではありません。今日お読みしたローマ書8章で明確に示されている通り、私たちの救いは、

この体が贖われた時に実現するのです。そしてその時、子の身分を授けられることを味わうの

です。だから体の贖われる日を待ち望んでいます。(8:23)それは、私たちが全能主の

前にあって100%罪人だからです。本来ならば、誰一人として天の御国に行ける者はいま

せん。しかしながら、
イエス様が私たちの罪の償いを全部して下さったおかげで、私たちの

ような罪深い者でも天に入れていただけるのです。
ならば、それまでの地上での生き方とは、

ひたすら、イエス様を見上げ、イエス様に助けていただいて、一つでも二つでも主の御心を

一生懸命やらせて頂くのです。
だから、ただひたすら、天に繋がることのために、イエス様に

あって一生懸命働かせて頂こうではありませんか。 

 


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