(起) 黙示録15章2節の「獣に打ち勝つ者」とは、「獣の前で命を落とす殉教者のことである」
ということを学び、患難時代において「勝利を得る者」となる秘訣は、「自意識を横に置き、
全能主のお考えを素直に聞いて、その通りやって行く」ことである、ということを学んで行きたいと
思います。
(承) さて、今お読みした中の「獣とその像とそのしるし、また、その名の数字とに打ち勝った人々」
とは、患難時代で殉教した殉教者たちのことです。彼らは「ガラスの海の側で、全能主の立琴を
手にして立っている」とあります。この「ガラスの海」とは、22章に記されている「水晶のように
輝いているいのちの水の川」のことですので、「患難時代で殉教した殉教者は、獣に打ち勝った者
として、聖なる都に入れられる」ということが、ここを読んで分かります。しかし、「打ち勝つ」と
聞くと、「自分の力で獣と戦って、勝たなければならない。死んだら終わりだ」というイメージを
持つでしょう。ところが、今私たちにはっきりと教えられていることは、「獣に打ち勝つ」という
ことは、「獣と対峙して、獣を倒す」ことではなく、「命を落とすことがあっても、信じる心は
捨てない」ということです。すなわち、「死に至るまで忠実であれ」と書いてあるとおりです。
ですから、私たちは患難時代に入ったら、「命を捨てずに獣と戦おう」と思う必要はありません。
むしろ、「自分の命は獣の前で捨ててもいいのだ」という心に立って、信仰を全うすれば良いのです。
この心を持って命を落とす殉教者こそが、「勝利を得る者」として、聖なる都に入れられると、
七つの教会に約束されているからです。
(転) では、私たちが患難時代で勝利を得る者となるために、今、身につけておかなければ
ならないことは何でしょうか。それは、「自意識を横に置き、全能主の言われることをそのまま
聞く」という習慣を身に着けておくことです。私たちは皆、生まれた時から自意識を持っています。
私たちはロボットとして造られたわけではありませんので、すべての人が「自分の考え、自分の思い」
を持っています。しかし、そこで問題なのは、私たちの自意識というものは、「罪の影響を受けた
自意識である」ということです。だから、自分勝手な「我」が、自意識となっています。例えば、
「怒られたくない。恥をかきたくない。人の上に立ちたい。人からから尊敬されたい」という
自意識は、全部、自分自身の利益を守るための自意識です。そういう自意識を持ちながら聖書を
読んだり、メッセージを聞いたり、御霊さまの声を聞いたりするなら、どうなるでしょうか。
聞きながら、自分が受け止められないものは、心に入れずに選り分けることになります。例えば、
「私は本当にやって行けるだろうか」、「出来なかったらまた怒られるし、恥をかくのは嫌だ」、
「自分は弱いから信じたのに、出来る訳がない」という思いが働くと、「自分にとって受け入れ
やすい話しは受け入れるが、受け入れにくいものは受け入れない」という聞き方になってしまいます。
そうすると、話されている内容の全体を理解することが出来なくなり、一部を摘み食いし、
メッセージの趣旨を理解せずに終わってしまいます。こういう聞き方は、子どもの頃からの習慣
としてやっています。しかし、それを当たり前のようにして続けていたら、いつまでたっても、
全能主やイエス様の心は分かりません。だから、私たちは、御霊さまの声を聞く時と同じように、
自意識を横に置き、「ありのまま聞きます」という心を、まず持つべきです。そして、まず全部
聞いた後で、その内容をもう一度霊的に正しく理解するのです。そして、それを行うかどうかは、
自分の意思で決めることですが、たとえ「難しいな」と思うことであっても、全能主に対して心を
開き、「御心に従います」という心で向かって行けば、全能主とのパイプは太くなり、繋がりも
強くなって、全能主の心が分かってきます。その状態で患難時代を迎えたなら、「私は絶対に獣を
拝まない。たとえ命を取られても、それはそれでいい。どこまでも全能主に信頼し、全能主に
明け渡して行こう」という方向に向かって行くことでしょう。
(結) ですから、これから患難時代に入って行くまでの間、私たちにとっての学びの訓練は、
「自意識を横に置くことを習慣として始め出して行くこと」です。そして、全能主のお考えを
受け留め、それを理解した上で主を見上げて従って行くことです。命閉じる時まで、このことに
焦点を合わせて行けば、私たちは「勝利を得る者」としての生涯を全う出来るでしょう。しかし、
自意識を横に置けない人は、無意識に自分の都合ばかり主張して、自分の気持ちが先立ち、出来ると
思うことだけに心を向け、全能主の考えを後回しにする生き方を習慣にしていたら、患難時代に
自分にとって不利な選択は出来ず、全能主に対して簡単に逆らうことになります。ただ自分の
見栄だけを守り、「つらい目に合うのは嫌だ。恥をかきたくない」という我の塊になり、表面だけを
装って行くことになります。そういう時は、イエス様を見上げていませんから、生まれながらの
性質が自意識となり、その自意識の習慣が背教へと繋がって行きます。ですから今、自分の意思を
使って、逆の方向に心を向けて行く習慣を身に付けなければなりません。この道は、自分がやろうと
しなければ永遠に始まりません。すべては自分の自由意志を全能主に明け渡すところから、
始まります。全能主に在って自分の意識を働かせるかどうかという、この訓練を今の時に始め、
「自意識を横に置き、全能主のお考えを素直に聞いて、その通りやって行こうとする正しい自意識」
を身に着けて行くのです。これを始め出すなら、患難時代において「勝利を得る者」として、
聖なる都に入れて頂くチャンスとなって行くことでしょう。
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