(起) 黙示録20章の御言葉から、「患難時代の殉教者に与えられる幸いな立場」について
学び、その立場を得るためには、「自分本位の生き方をやめて、全能主本位の生き方を
始め出す」ということを学びたいと思います。
(承) さて、20章4節を見ますと、「彼らは獣とその像を拝まず、その刻印を額や手に
受けることをしなかった人々である」とあります。獣とその像を拝まなかった人々とは、獣が
支配する中にあって、獣に従わず、最後まで全能主とイエス様の証しをして、死んで行った
「患難時代の殉教者たち」のことです。その中には、昔のキリシタンの方々のように、ひどい
拷問を受けて死んで行った人もいるかもしれません。ところが、そのあとを見ますと、「彼らは
生き返って、キリストと共に千年の間、王として支配した」とあるように、地上にあって
どんなに苦しい目に遭ったとしても、患難時代の殉教者は、そのあと生き返って、打ち傷も
何もかも癒され、新しい身体を頂いてイエス様と共に千年の間、王として支配するのです。
それだけでなく、千年が終わった後、21章に記されている「聖なる都エルサレム」の中に
入れられ、「全能主のしもべ」としてそこに住む者とされます。これが、「患難時代の殉教者」に
与えられる幸いな立場です。
(転) そこで、殉教者として、幸いに預る重要なポイントは、「勝利を得た者」が、
命を閉じた後に「生き返る」という復活が大前提として語られていることです。もしそこに
復活がなければ、黙示録に書かれていることは、単なる絵図等事として忘れ去られていくで
しょう。しかも、これらの幸いな特権は、すべてご破算になってしまいます。しかし、私たちの
復活は実際に起こる事柄です。なぜなら、イエス様が私たちの罪の償いのために十字架に
懸けられた後、全能主はイエス様を甦らされたからです。キリストの証人であるパウロは、
この甦らされたイエス様を同時に見た人々が、500人以上もいるとコリント人への手紙を
書きました。しかも、彼らの多くは、今もなお生き残っていると書いているのです。それなら、
イエス様の復活を疑った人々は、この500人以上もの生き証人がいると言うパウロの証言が
真実かどうかを、エルサレムに行って確かめることが出来ました。そして、もしその復活が
眉唾物であったならば、イエス様の復活の話は、歴史上から消え去っていたことでしょう。
しかし、それでも尚、今日まで語り伝えられていることは、その事実が確かなものであったから
です。ならば、キリストを信じる私たちも、復活させられるという望みが、叶えられる可能性が
十分あると言う事です。ロマ書6章5節を見ますと、「もし私たちが、キリストに結びついて、
その死の様に等しくなるなら、彼の復活の様にも等しくなります」とパウロさんは語って
います。私たちの罪の贖いは、キリストの死によってすべてが完了されました。しかも、
そればかりではなく、私たちがキリストと共に甦るなら、贖いがされたことを実際に
味わうことができます。もし、贖いだけで、復活がなければ、罪の裁きが終わったという
だけで、それを実際に味わうことは出来ません。ただ、永遠の眠りの中に入るだけになって
しまいます。ですから、復活があって、初めて私たちの救いが現実のものになるのです。
そして、黙示録に書かれた御国の幸いな光景を味わうのです。しかし、復活と黙示録に
記されている幸いな立場を味わう者になるかどうかは、私たちの今の信仰の生き方にかかって
います。決して自動的に皆「聖なる都」が約束されているのではありません。黙示録21章7節
では、私たちが「勝利を得る者」となってこそ、これらを相続するとありますから、「死に
至るまで忠実であれ」と言われたように、獣の刻印を押さずに最後まで聖徒の忍耐によって
勝利を勝ち得た者が、天に引き上げられることは確かです。しかし、私たちには自由意志が
与えられていますので、その全能主の計画に最後まで従うかどうかは、私たち自身にかかって
います。そこで、私たちがすべきことは、「全能主のご計画のために、この命を使って頂ける
なら本望です。どうぞ使って下さい」という心で、自分自身を明け渡し、全能主が考えて
おられる御心を素直に受けとめ、それを忠実に行うことです。それが出来れば、「よく忠実に
従って来てくれた」と言われ、全能主が予め備えて下さっていた、天での特別な待遇を受ける
ことが出来るのです。
(結) ですから、地上における私たちクリスチャンの歩みは、「イエス様を信じたなら、
それだけでいい」というものではありません。イエス様を信じたクリスチャンの歩みは、
「自分本位の生き方ではなく、全能主の御心に従う、全能主本位の生き方」をすることです。
この地上で、その生き方を全うしたならば、命を失ったあとに復活させられ、罪とは関わりの
ない新しい命と新しい身体を頂いて、黙示録に記されているあの幸いな立場に置かれるのです。
どうか、もう自分本位の生き方をやめて、全能主本位の生き方を始め出しましょう。そして、
全能主の国と全能主の義をまず求めて、私たちに託された全能主の最後の集大成のために
働かせて頂こうではありませんか。
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