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2017年11月5日

『正義感やこだわりは完全に砕くべきである』

使徒の働き10:17~36


(起) 「ペテロが見た夢を通して、私たちの中にあるわずかばかりの正義感やこだわりは、

完全に砕くべきである」ということを学びたいと思います。


(承) さて、ある時ペテロは、「汚れた動物をほふって食べなさい」と言われる、夢を

みました。旧約聖書のレビ記には、「食べて良いものと、食べてはいけないもの」がはっきりと

記されております。ですから、律法学者や祭司たちはもちろん、一般のユダヤ人たちも、

食べ物については厳格な意識を持っていました。だから、「汚れた動物を食べなさい」と

言われたこの夢は、ペテロにとっては非常にショックな夢だったのです。そんな中で、「これは

いったい何のことだろうか」と思い巡らしていると、異邦人であるコルネリオの使いがペテロの

所に訪ねて来ました。その時、「何も疑わないで、彼らと一緒に出掛けて行きなさい。わたしが

彼らを遣わしたのです」という御霊の声があり、ペテロは彼らと一緒にコルネリオの家を

訪問することにしました。そして、コルネリオの家に着き、彼の話を聞いているうちに、自分が

見た夢と、それに関連して起こった出来事の繋がりが見えてきたのです。ペテロは、「これで

私は、はっきり分かりました。絶対主は人をえこひいきなさるお方ではなく、どんな国民でも、

絶対主を恐れかしこみ、義を行う 人は、絶対主に受け入れられる」と悟ったのです。

このことを通して「絶対主は、異邦人に対しても、救いと聖霊の満たしを与えられる」という

ことが明らかになって行くのです。


(転) では、このことを通して、絶対主がペテロに教えたかったことは何だったので

しょうか。それは、「人間には絶対的な正義はない」ということです。どういうことかと

申しますと、ユダヤ人は「律法は絶対に正しいもの」という正義感とこだわりを持って

いました。しかし、だからといって、その律法を知っている者が正しい人間ということには

なりません。
どこまでも、全ての人間は生れながらに絶対主の前に罪人です。それなのに、

人間は自分勝手に「自分は正義を知っているから正しい人間だ」と思い込んでしまっているの

です。それは恐ろしい思い違いです。
たとえ正義を知っていても、「人間は生れながらに罪人

である」という大前提を忘れ去ってはいけません。これは、日本人である私たちにも言えること

です。私たちは異邦人ですから、子どもの頃から律法を教えられてきたわけではありませんが、

一般常識として、「これは良いこと、これは悪いこと」という教育を受け、学んできました。

そして、その教えを守り、その中で生きて行くことが正しいことだと思い込んできたのです。

でも、たとえ正しいことを学んだとしても、「罪人である」という土台は絶対に変わりません。

そして、罪人である以上、私たちに絶対的な正義はないのです。それは、私たちが今まで

持ってきた正義感や、自分を正しいとする判断は、どこまでも罪人の都合によって決めてきた

取り決めです。それは、上からの絶対的な正義ではありません。正義は、絶対主にしか

ありません。ですから私たちの正義感は、時として過ちもあります。ですから、場合に

よっては、その正義は砕かれなければなりません。そこで、ペテロは事の良し
しを絶対主から

考え、それを砕いたのです。どいう事かと言いますと、どこまでも、律法は絶対主の権威の中で

絶対主が決められたものです。ですから、絶対主の権威の中で決めたものは、絶対主の権威の

中で変える権威もあるのです。そこで、絶対主はペテロに、「私が清めたものを、清くないと

言ってはいけない」と言われました。ですから、ペテロは、その言葉を思い巡らしたのです。

それを、もしペテロが「ユダヤ人が異邦人と交わることは律法で禁じられているから、それは

絶対にダメです」という正義感を持ち続けていたら、ペテロは絶対主から示されるべき結論に

たどり着くことはできなかったでしょう。私たちも、これから主の働きに用いられて行く中で、

今まで経験しなかったようなことを経験させられるかもしれません。それでも、それをはなから

否定したり、身勝手な判断をしたりしてはいけません。
私たちは、どこまでも絶対主に聞き、

その中で、正しいか正しくないかの判断をするのです。
この原則に、私たちはしっかりと

立つべきです。


(結) どうか、この真理に目覚めて下さい。もし、心の中に自分の正義感による、何か

こだわりがあるならば、それはよく吟味すべきです。絶対主の前に正しいこだわりなのか、

どうかをよく考えるべきです。
変な正義感を持っていたなら、勇気をもって砕く必要が

あります。
私たちは絶対主の前にあって、初めから罪人です。本当に、箸にも棒にもかからない

人間です。そんな人間に、正義なんてないのです。最低限、そこをきちんと分かっていたなら、

私たちは絶対主と繋がります。なぜなら、罪人は自分の正義をベースに救われたのではないから

です。ですから、どこまでも絶対主に在って考え、絶対主に頼って行動を起こそうとすべき

です。どうか、罪人の持つわずかばかりの正義感やこだわりを砕く勇気を持ちましょう。

そして、それを完全に砕く遜りを通して、絶対主の前に従って行こうでは ありませんか。


 


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