聖書の詩篇51篇によると絶対主は、いけにえを望まれないとあります。絶対主への
いけにえは、「砕かれた魂」です。それは、ダビデさんのように「私は自分のそむきの罪を
知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります」と告白しているように、自分の罪は
自分の目の前に置くべきで、あえて自分の前から遠ざけ、心の痛みを消そうとするのは、
卑怯なことです。自分の犯した罪は、一生涯背負って行くべきです。イエス様は、生まれ
ながら罪人である私たちの罪の償いを、「十字架の死の苦しみ」を通して贖いをして下さい
ました。それなのに、罪の張本人である私たちが、自分の犯した罪を棚上げにして、「私の
罪を雪よりも白くして下さい」と願うのは、罰当りな願いです。贖いによって罪から救われ
ても、罪が無くなったわけではありません。だから、絶対主はダビデさんの「いけにえ」
より、「砕かれた心」を求められたのです。生まれながらの罪人が救いを頂けたのなら、
絶対主の前に「砕かれた、悔いし心」をもって、主の前にへり下って行くべきです。そのため
には、最低限、自分の罪を棚上げせずに、絶対主の前に自分の罪を自覚して行くべきです。
自分の罪の呪いを自覚する位いは当然です。ダビデは、「まことに、私は自分のそむきの罪を
知っています」という前提の中で、主の前に祈りました。そうすれば、反省だけして赦して
もらおうとする身勝手な祈りは消え去ります。まずは、「罪人が罪人として自覚する」
ことは、罪人の私たちでも出来ることです。その位いの自虐の精神は必要です。私たちの
罪は、ヒソプや水の洗い位いで除けるものではありません。救われたクリスチャンでも、
一生涯自分の犯した罪は背負って行くのです。主が帳消しにして下さっても、私たちが帳消し
にしてはいけません。 |
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