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2016年 NO.552


 
罪の自覚は、帳消しに出来ない


  聖書の詩篇51篇によると絶対主は、いけにえを望まれないとあります。絶対主への

いけにえは、「砕かれた魂」です。それは、ダビデさんのように「私は自分のそむきの罪を

知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります」と告白しているように、自分の罪は

自分の目の前に置くべきで、あえて自分の前から遠ざけ、心の痛みを消そうとするのは、

卑怯なことです。自分の犯した罪は、一生涯背負って行くべきです。イエス様は、生まれ

ながら罪人である私たちの罪の償いを、「十字架の死の苦しみ」を通して贖いをして下さい

ました。それなのに、罪の張本人である私たちが、自分の犯した罪を棚上げにして、「私の

罪を雪よりも白くして下さい」と願うのは、罰当りな願いです。
贖いによって罪から救われ

ても、罪が無くなったわけではありません。だから、絶対主はダビデさんの「いけにえ」

より、「砕かれた心」を求められたのです。生まれながらの罪人が救いを頂けたのなら、

絶対主の前に「砕かれた、悔いし心」をもって、主の前にへり下って行くべきです。そのため

には、最低限、自分の罪を棚上げせずに、絶対主の前に自分の罪を自覚して行くべきです。

自分の罪の呪いを自覚する位いは当然です
。ダビデは、「まことに、私は自分のそむきの罪を

知っています」という前提の中で、主の前に祈りました。そうすれば、反省だけして赦して

もらおうとする身勝手な祈りは消え去ります
。まずは、「罪人が罪人として自覚する」

ことは、罪人の私たちでも出来ることです
その位いの自虐の精神は必要です。私たちの

罪は、ヒソプや水の洗い位いで除けるものではありません。救われたクリスチャンでも、

一生涯自分の犯した罪は背負って行くのです。主が帳消しにして下さっても、私たちが帳消し

にしてはいけません

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