人は、失敗や過ち(罪)を犯した場合、その指摘を受けて反省を求められます。そこで、
「もう二度としない」と決心するように求められ、決意を表明することによって赦しを
乞います。ところが、その反省によって叱られる屈辱から解放されると、すっかり罪の責めは
消え去り、罪を犯した意識は棚上げされてしまいます。これが、一般の人間がしていること
です。ですから、誠意のある反省や懺悔を幾ら繰り返しても、時間と共に罪の意識は消え去り、
その屈辱を忘れ去ろうとします。これによって罪は棚上げされ、反省によってその人が義人に
なるということは、決してありません。このことは、絶対主である父が一番ご存じですから、
人の反省を望まれません。(詩篇51:16) 又、いくら罪の深い責めを感じたとしても、
それで「二度と同じ過ちは繰り返さない」と言い切ることはできないのです。ですから、
反省することが、罪に対する正しい対処とは言えません。特にクリスチャンの場合は、
「生まれながらの罪人である」という性悪説に立っていますので、性善説に立っている一般の
人々のように、「罪の反省を正しくすれば、二度と同じ過ちを犯すことはない」と安易に
考えてはならないのです。現実に、フォルクスワーゲンや三菱自動車の燃費偽証は、性善説に
立っている人間の盲点を突いたショックな出来事で、決して人間は性善ではないことを
実証しています。ですから、聖書は「絶対主は、いけにえを望まれない。」とあり、
「絶対主へのいけにえは、砕かれた魂」とあります。それは、罪を犯したなら反省ではなく、
その罪に対する責任は自分にあるので、「そのまま受け留め、そのまま叱られなさい」と
言われているのです。「叱られ、怒られる」ことは、誰でも嫌がります。しかし、その嫌がる
心を砕いて、そのまま罪の責めを受け留め、ただ悔いる中に入ることです。そして、「本当に
私が間違っていました。私が悪かったのです」と受け留めた時、絶対主は、「絶対主よ、
あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)とあるように、絶対主はその心を
さげすまれない証しとして、罪人の心に絶対主の「赦しの光」が灯るのです。そして、罪人にも
平安がやって来ます。なぜなら、罪人その者を救うために、イエス様が死んで下さった贖いが
あるからです。これは「反省」ではありません。なぜなら、反省は「これから、正しい心を
持ちます」という表明ですが、「砕かれた魂」は、「罪の責任は自分にあります。ただ、私が
悪かったのです」と罪を心の中に留めただけだからです。「反省」は、罪を棚上げします。
しかし、「砕かれた心」は、罪そのものを受け入れ認めます。絶対主は、罪人が義人ぶるのを
一番嫌われるからです。この悔いる心から光が灯される経験を味わって下さい。 |
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