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2016年 NO.572 |
この地上で、人が羨む「お利口さん」で、何やってもピカイチの人がいます。そういう人は、 仕事は手早くて、何やっても出来る。生まれながらに才のある人です。ところが、反対に 何やっても出来なくて、本当に間抜けな人もいます。この能力の差は、母の胎の中にいる時から 創造主の手の中で決っていたようです。ですから、生まれてからでは手遅れで、どうにもなりま せん。なぜなら、お利口さんで育った人は、「自分を崩すこと」が出来ないからです。 この地上の教育は、全ての人が「お利口さん」になることを願って教育を施されます。だから、 誰しもが一番になりたいと思って、「お利口さん」を目差して頑張ります。それが「正しい こと」だからです。そして、「お利口さんに育った人」は、「人から認められ、絶対主からも 認められる」と信じています。ところが、天ではそれが通用しないのです。なぜなら、人間は どんなに「お利口さん」になっても、生まれながらの罪人で、絶対主の前では「怒りの器」で あるからです。それは、被造物の最良の作品であったルシファーがそうでした。彼は、「全き ものの典型であり、知恵に満ち、美の極みでした。」(エゼキエル28:12)しかしながら、 彼はどこまでも被造物であり、美の極みであったとしても、絶対主の前にへり下るべきでした。 ところが、彼は、「自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせ、地に投げ 出されました。」(エゼキエル28:17)彼は、「絶対主の星々のはるか上に王座を設け、 いと高き方のようになろう」(イザヤ12:13)と言ったのです。だから、「彼は、よみに 落され、穴の底に落される」(イザヤ12:15)のです。人間は、このルシファーに踊らされ、 同じように「絶対主の如くなろう」(創3:5)と願って絶対主に逆らいました。そして、 ルシファーのように「罪を犯した怒りの器」となったのです。ということは、人間は罪人という 怒りの器であって、決して全き者にはなれません。ですから、たとえ「お利口さん」として 育ったとしても、絶対主の前では、「依然罪人のままの怒りの器」である事実を受け留めて へり下らなければ、絶対主と繋がりません。ところが、「お利口さん」を目差して来た者は、 自分を崩せないのです。崩さないことが正しいと思って来たからです。それは、自分の義が 勝っていることです。人間はどうにもならない罪人であったが故に、イエス様が身代りとなって 罪の贖いをして下さったのです。そこには、1つも人間の功績はありません。ですから、 たとえ天に上げられたとしても、自分の義を立てることはできませんから、生の罪人の姿を 知れば、自分を落すしかないのです。「お利口さん」で育って来た人は、罪人としての 心の痛みを感じることが鈍いのです。それは、子供の頃から褒められて育ったからです。 ですから「罪人であった自分」を認めて行くかどうかが、天の絶対主と繋がるかどうかが 決まるのです。これが、人の心の一番大切なものです。 |
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