ルカ5:17~26
(起)自分のためではなく、絶対主のために(人のために)心を使う献身の歩みについて、
学んで行きたいと思います。
(承) さて、この記事は、4人の男たちが、中風の人を寝床にのせたまま運び、家の屋根を
はがして、そこからつり降ろすという内容です。普通、自分が病気だったら、「這ってでもイエス様
の所に行くんだ」という気持ちになると思います。しかし、彼はどうしても人の助けを借りなければ
なりませんでした。そこで、周りいた4人の者は、「彼をなんとか助けよう」という気持ちになり、
人の家の屋根をはがしてつり降ろすという、「そこまでするか」と思うようなことを、現実にやった
のです。彼らの一途な心は、「なんとか、この中風の者が癒されるように」と願い、必死になって
イエス様の所に連れて来ました。イエス様は、人のために心を遣い、人のためになんとかしよう
としている、彼らのその信仰心を見られて、好意的に受け止めてくださったのです。一般常識なら、
「自分たちの勝手な願いで、他人の家の屋根まではがして、何を考えているんだ」と、怒りまくる
と思います。ところが、イエス様は人の心を見て、人の心を思い計って下さり、彼らの心の中の本音
に感動し、「人よ、あなたの罪は赦された」と言って、中風の人の罪を赦し、病も癒して下さった
のです。私たちも、本気で心を使う行為なら、イエス様は喜んで受け入れて下さるのです。
何故なら、心から出た行為だけが、主の心に触れるからです。計算ずくの頭の行為は、
喜ばれません。
(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちは普段「人のためではなく、いつも自分のため」
に心を使っています。そして、自分が認めてもらうために必死に心を使おうとしています。
ところが、自分を認めてもらうために心を使っても、それを認めてもらえなかったらどうでしょうか。
自分の心を全部否定されることになるのですから、心の持って行き場が無くなり、自分は何をすれば
いいのか分からなくなって反抗心を抱くのです。すると、「もう心を使わない生き方の方がいい」
という気持ちになり、何をするにも形だけでやっていく人間になってしまいます。それが、自分の
身を守るためには一番良いからです。しかし、自分の罪が赦されたことを喜び、絶対主に対して
感謝する気持ちがあるなら、「絶対主のために生きていきたい」という思いになります。
それが、救われたクリスチャンの自然な心だと思います。そして、絶対主のために生きて行きたい
と思ったのであれば、人のためになること、人が喜んでくれることを求めていくはずではない
でしょうか。そこから、献身という心が始まります。それなのに、罪赦されたて救われたにも
かかわらず、自分自身が認めてもらうために心を使おうとするのは、おかしな話です。私たちは、
心の使い方が間違っていたのではないでしょうか。一般の人は、心を込めて一生懸命やったことが
否定され怒られたら、逃げ場がありませんので、人は心を使うのを嫌がります。
しかし、クリスチャンは、罪人が罪人であることが分っているなら、罪人扱いされても当然の
ことですから、たとえ心からの行為を否定されたとしても、その動機が純粋であるなら、心から
「ごめんなさい」と謝まれるはずです。自分を守る必要はありません。それが、絶対主の前にする
行為です。私たちが、一生懸命気持ちを込めてやったものなら、たとえ失敗したとしても、本当の
「すみません」が出てきます。主は、その心を見て下さり、「もう一度挑戦してみなさい」と
言って下さるはずです。
(結) 私たちは、自分のメリットのために生きているのではないはずです。永遠のメリットは、
もう十分イエス様からいただきました。ならば、罪人がお返しするようなことはできないかも
しれませんが、私たちにできることを、心を込めてやらせて頂いたらどうでしょう。
今までのように自分が認められるためにするのではなく、絶対主のためにするのですから、絶対主の
御心のために、何が何でもしたいという生き方に飛び込んで行けばいいのです。そして、そのために
心を使っていきましょう。それが、献身のスタートです。どんなに恥をかこうが、失敗しようが、
罪人ですから、守る必要はありません。ただ、「すみません」と正直に認め、「何度失敗しても、
またやらせて下さい。イエス様のためにやるのです。」こうして、砕かれた心を持って、生涯を
終えたいと思います。私たちのような罪人でも、そのように心を砕いたことによって、「それで
良いのです」と言って下さる救い主がおられるのですから。この純粋な世界で生きて行くのが、
救われたクリスチャンの特権です。私たちは、この理想の世界で生きて行けるのですから、
その献身は裏切られることはありません。この本気で歩む、献身の道を、進んで行こうでは
ありませんか。 |
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