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2015年1月11日    



『罪人だからこそ、一生懸命やっていく』




 ルカの福音書10:25~37


(起)「罪人だからこそ、一生懸命やっていく」ということについて、学んでいきたいと思います。

(承) さて、一人の律法学者が、永遠の命を求めてイエス様の所に来たのですが、この人は、

本気で求道の心を持って来たのではなく、イエス様を試そうとする気持ちで訪ねてきました。

それは、会話の内容を見れば分かります。まず、「何をしたら永遠のいのちが受けられましょうか」

とイエス様に尋ねると、イエス様は、「律法には何と書いてありますか」と言われました。

すると彼は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、ヤハウェなるあなたの

絶対主を愛せよ。』また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と答え

ました。彼は、「何をしたらいいでしょうか」とイエス様に尋ねましたが、自分がすべきことは何か、

すでにちゃんと分かっていたのです。ならば、それでOKのように思います。ところが、彼はそこで

終わらず、「では、私の隣り人とは誰のことですか」と、さらに尋ねたのです。それは、隣り人が

誰のことか、本当に分からなかったから尋ねたのではなく、「自分はそれもやっている。

そのくらいのことはずっと心掛けてやってきました」という気持ちが彼の内にあり、その心を正当化

するために、あえてそのように言ったのです。ですから、イエス様は彼のその心を見抜かれ、

「自分のことを愛してくれる人に対しては、自分も愛することができるかもしれない。でも、自分に

とって愛せない人に対しても、愛することができますか?」ということを、サマリヤ人のたとえを

通して話されたのです。人間というのは、嫌だなと思う人に対しては心を閉じてしまう、そういう

罪人です。だから、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というのは、本当はもの

すごく難しいことで、「やっています」とは言えない筈です。そんな中で、彼は自分は行っている

と思い、「自分の正しさを正当化しようと思って」(ルカ10:29)主に「私の隣人とは

誰ですか」と逆聞きしています。これはいったい、どういうことでしょうか。それは、自分が

100%罪人であるということを自覚していない現れです。もし彼が、自分は本当に罪人で、

律法をそのまま行なえない者だということを自覚し、悩んでいる人なら、こういう言い方はしな

かったでしょう。


(転) では、私たちはどうでしょうか。

実は、私たちにも同じ思いがあるのです。いつもどこかで、自分を正当化しようとする思いが出て

きます。それは、「自分は罪人だが、自分なりに頑張ってきた」と言う自負心があり、自分をダメ

な者だと思いたくない心があるからです。
だから、できもしないのに、余裕をこいて発言します。

しかも、一生懸命やって、できなかったらダメージを受けるので、できない自分を人前にさらけ

出さないために、持っている能力の50%くらいで、「できることをやっておけばいい」という

生き方を身につけています。しかし、信仰を持ったクリスチャンは、その生き方が変わって行く

はずです。なぜなら、私たちは100%罪人ですから、そのままでは、ゼロです。

だから、何とか主に頼って一つでも、二つでもしていきたい。その心が、私たちを前向きに努力

させるのです。そして、主にあってできる者であることを味わっていきたいと思うのです。

しかし、たとえ頑張って遣っても、所詮は罪人ですから、絶対主の前に遜ります。高慢には成り

ません。何をやったって完璧にはできない事を、心得ていますから。

ですから、たとえできなくてもダメージを受けません。ゼロであることを遜って認めていますから、

出来なくても、又主に頼って頑張ってやろうと思うからです。自分の能力に限界を覚えていません。

元々ゼロだと認めていますので、一生懸命やるだけのことです。この気持ちは、「自分が罪人だ」

という前提です。何の能力もない自分を認めているからこそ、クリスチャンは、「このままでは何

も出てこない。だから、一生懸命やって、少しでもできるようになりたい」という気持ちに変わって

いくのです。そして、この気持ちは、絶対主とイエス様に対しても同じ心で仕えて行こうとします。

「自分は罪人で、何の能力もありません。でも、絶対主、イエス様のためには、なんとか良いもの

を持って行きたい」という気持ちです。私たちは100%罪人ですから、「何かやらなくちゃいけ

ない」とか、「何かできる」と思って余裕をこいていてはいけません。何もできないのです。

そんな罪人である自分ですが、主の助けを借りて、何とか少しでもやりたいと思いませんか? 

だから、何事においても手を抜かないし、何事においても一生懸命心を入れてやるのです。

そこに、私たちの正しい努力が生まれてきます。やる時には全部全力で、たとえ跳ね返されて負ける

ことがあったとしても、そのことを絶対主が全部分かって下さっていますから、それでいいのです。

最良の時に、必ず絶対主は助けを下さいます。そうしたら、目の前にあった壁が崩れ落ちて、

「できなかったことができた」ということを味わうのです。この絶対主の全能の力をもし味わえた

なら、クリスチャン冥利に尽きます。
本当に、「ありがとうございます」となると思います。

もし、「ダメな自分を見たくないから」と言って何もやらなかったら、永遠にゼロのままです。

ところが、そのダメな者が「絶対主は必ず助けて下さるに違いない」と思って前に向かって行けば、

絶対主の御心の中で、必ず扉は開かれます。


(結) ですから、
何事も常に心を全開にし、一生懸命やっていきましょう。実は、これが正しい

悔いし砕かれた心であり、クリスチャンの生き方です。どんなに怒られても、心は常に開き、

何事も前向きに取り組んでいく。
その心を持って、イエス様に従っていきましょう。この道は頭で

分かって、自分のものになるのではありません。このメッセージを聞いて、「そうだ」と思ったら、

その世界に飛び込んでいくのです。それが信仰です。躊躇せずに、疑わずに、不安にならずに、

「その世界でやっていこう」と飛び込むと、そこからいろいろなことを味わっていくのです。

今年は、この心を現わしていきましょう。 
 


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